大宰府条坊跡発掘調査 (西鉄二日市操車場跡地)        2006-11-25
井戸 柵 道路 ごみ穴等検出 
大宰府条坊跡発掘調査
(西鉄二日市操車場跡地)




 14条路 第277次調査

  267次大宰府条坊跡調査場所の道路を挟み向い側14条路
 
 *奈良時代の官人居住地
 *大宰府に集められた人々の階層を、宅地面積で表現することを
    目的とした施設
 *大宰府令制「政庁Ⅱ期」と共にくつられ、平安時代中期の藤原
    純友の乱によって焼かれた後に再建されたⅢ期政庁の時期
    に再び再整備された。 




2006/11/23付けの西日本新聞記事
大規模な官が施設、畑跡出土 西鉄二日市
駅操作場跡 25日に現地説明会
「大宰府 条坊」発掘調査
平瓦(9世紀中~後半)
左下は土師器小皿(11世紀)左上は白磁碗(11世紀後半)
右下は黒色土器(11世紀) 右上は土師器丸底杯(11世紀)
左下は「有佛」の墨書瓦(奈良時代) 左上は長沙系青磁壷(9世紀) 左中上はバンドに付けていた石帯 右下は井の墨書須恵器(奈良時代) 右上は須恵器脚付き盤 
般若寺丘陵裾からの出土品で左滑石製石塔、9世紀中~後期
楠の巨木をくりぬき中枠に利用した井戸(深さ約2m、直径約1m)
平安時代前期の井戸跡
整然と並んだ建物跡
奈良時代柱痕

15条路跡と側溝 他建物柱跡
大宰府教育委員会文化財課では11/25大宰府条坊跡の発掘調査の成果中間発表をした。
 ここは西鉄二日市駅操作場跡で朱雀3丁目、般若寺から榎寺に続く丘陵の南西一帯、で2004/4からの調査。
 今回の調査で判ってきた事は  ①大宰府条坊の土地利用の変遷を知る上で貴重な発見  ②奈良時代と見られる大型掘立柱建物
  が2棟並び、官が施設の可能性が強い事  ③奈良時代の東西道路を86m間隔で確認。道路間の宅地は80m間隔  ④大宰府条坊
  内で畑遺構の発見  ⑤般若寺丘陵裾で「有佛」の墨書瓦や非常に珍しい滑石製石塔が出土。
O奈良時代
    掘立柱建物10棟、柵列3基が確認、掘立柱建物は、2棟の長大な建物(南北29m*東西6m以上、南北24m*東西8.5m)が並んで確
  認周囲には総柱建物が散在している。  道路両側に幅1m程の側溝が掘られた15条路、16条路が確認された。14条路は平安初期
  に埋没、奈良時代の道路の可能性、14条路と15条路間は80m、15条路と16条路間は79mで、15条路と16条路間の真ん中には東西溝
  が掘られ、区画溝と見られる。この時代は、建物規模や柱の掘り方は大きいが、建物数は少なく等間隔に整然と広い敷地に並んで
  いた。
O平安時代
 掘立柱建物19棟、井戸29基等確認された。9世紀代は活動が活発で、整地をした直後に畑が作られ、15条路が掘り直されているが
 側溝はすぐに埋まっている。14条路の側溝も2回掘り直された後に9世紀後半に埋まっている。当初謎の遺構と見られていた3m四
  方の格子状(50m四方の範囲)の溝は、長岡京で平安時代初期の小溝群が確認され、畑に関連した痕跡と見られていた事から、畑
  の耕作痕跡の可能性がある。この畑痕跡は現状では14,15条路の中に限って確認され、これだけ大規模なものは大宰府では例がな
  い。奈良時代に大型建物が建ち並んでい  た土地が、何故畑になったのか判らないが、9世紀になると大宰府周辺地域でも建物
  や遺構が減少す  る傾向にあり、又水城西門ルートの官道の廃絶、牛頸窯での須恵器生産の終息など大宰府を初め広範囲での
  9世紀を取巻く環境に変化  のあった時期、畑痕跡はその一端を示している。平安後期これら条路や区画溝が埋没後に、建物規
  模こそ奈良時代のものに及ばない  ものの、19棟の建物跡を確認。丁度大宰府政庁廃絶後であり、かっての条坊の区画に左右さ
  れない土地利用がなされ、条坊内の景観も大きく変わった。
O平安時代末期以降
 古代の溝や建物と方位が異なる掘立柱建物が1棟確認され、平安末期以降と推測。
 鎌倉時代になると遺物は極端に少なくなり、遺構も見つかってない。これは政庁が廃され、観世音寺や安楽寺(太宰府天満宮)等
  有力寺社の庇護により町が形成され、この付近は観世音寺周辺の町からすれば、般若寺丘陵の後ろに位置する事になり、居住地と
  して利用されなかった可能性がある。西鉄操作場が出来るまでの700年間田畑であったと推測される。
西鉄二日市駅操作場跡に官が施設跡発掘全景
inserted by FC2 system