大宰府教育委員会文化財課では11/25大宰府条坊跡の発掘調査の成果中間発表をした。 ここは西鉄二日市駅操作場跡で朱雀3丁目、般若寺から榎寺に続く丘陵の南西一帯、で2004/4からの調査。 今回の調査で判ってきた事は ①大宰府条坊の土地利用の変遷を知る上で貴重な発見 ②奈良時代と見られる大型掘立柱建物 が2棟並び、官が施設の可能性が強い事 ③奈良時代の東西道路を86m間隔で確認。道路間の宅地は80m間隔 ④大宰府条坊 内で畑遺構の発見 ⑤般若寺丘陵裾で「有佛」の墨書瓦や非常に珍しい滑石製石塔が出土。 O奈良時代 掘立柱建物10棟、柵列3基が確認、掘立柱建物は、2棟の長大な建物(南北29m*東西6m以上、南北24m*東西8.5m)が並んで確 認周囲には総柱建物が散在している。 道路両側に幅1m程の側溝が掘られた15条路、16条路が確認された。14条路は平安初期 に埋没、奈良時代の道路の可能性、14条路と15条路間は80m、15条路と16条路間は79mで、15条路と16条路間の真ん中には東西溝 が掘られ、区画溝と見られる。この時代は、建物規模や柱の掘り方は大きいが、建物数は少なく等間隔に整然と広い敷地に並んで いた。 O平安時代 掘立柱建物19棟、井戸29基等確認された。9世紀代は活動が活発で、整地をした直後に畑が作られ、15条路が掘り直されているが 側溝はすぐに埋まっている。14条路の側溝も2回掘り直された後に9世紀後半に埋まっている。当初謎の遺構と見られていた3m四 方の格子状(50m四方の範囲)の溝は、長岡京で平安時代初期の小溝群が確認され、畑に関連した痕跡と見られていた事から、畑 の耕作痕跡の可能性がある。この畑痕跡は現状では14,15条路の中に限って確認され、これだけ大規模なものは大宰府では例がな い。奈良時代に大型建物が建ち並んでい た土地が、何故畑になったのか判らないが、9世紀になると大宰府周辺地域でも建物 や遺構が減少す る傾向にあり、又水城西門ルートの官道の廃絶、牛頸窯での須恵器生産の終息など大宰府を初め広範囲での 9世紀を取巻く環境に変化 のあった時期、畑痕跡はその一端を示している。平安後期これら条路や区画溝が埋没後に、建物規 模こそ奈良時代のものに及ばない ものの、19棟の建物跡を確認。丁度大宰府政庁廃絶後であり、かっての条坊の区画に左右さ れない土地利用がなされ、条坊内の景観も大きく変わった。 O平安時代末期以降 古代の溝や建物と方位が異なる掘立柱建物が1棟確認され、平安末期以降と推測。 鎌倉時代になると遺物は極端に少なくなり、遺構も見つかってない。これは政庁が廃され、観世音寺や安楽寺(太宰府天満宮)等 有力寺社の庇護により町が形成され、この付近は観世音寺周辺の町からすれば、般若寺丘陵の後ろに位置する事になり、居住地と して利用されなかった可能性がある。西鉄操作場が出来るまでの700年間田畑であったと推測される。 |