松屋 その後昭和7年に旅籠廃業 50年前から土産物屋と茶屋を営んでおられる

松屋入口

薩摩藩定宿であった当時の旅籠看板

旅籠当時の儘の階段箪笥

勤王の志士達が泊まった大広間

床の間 書が掲げられている

平野國臣と月照上人の書

大久保利通書

月照上人の書

西郷隆盛、書

茶屋には勤王の志士の書

裏庭には月照の歌碑「言の葉の 花を主に 旅ねするこの松影は 千代も忘れじ」下に歌碑紹介

裏庭には四季折々の花木が多く植えられ、年中くつろげる茶屋
旅籠「松屋」 
   旧薩摩藩の定宿であった旅籠松屋さん、栗原孫兵衛の第6代当主栗原雅子様のご案内で、当時維新の志士達が宿泊した部屋を見せて頂いた
 幕末、門前町にあった数軒(日田屋、太和屋、松屋、大野屋、泉屋)の旅籠の一軒で薩摩藩定宿でもあり、江戸時代旅籠と醤油屋を営み主人栗原孫兵衛は筑 前における豪商として知られた人である。勤王の志士達が出入りしたので、大久保利通、西郷隆盛、月照上人、等の書他関係資料も多く残されている。
 庭園には、安政5年西郷隆盛と共に錦江湾に入水(入滅)した京都清水寺勤王僧 忍向(月照上人)の記念碑が置かれている。
 慶応元年2月、来訪した西郷隆盛、山中成太郎が月形仙蔵と密議したのも当宿であった。  
五卿と月形洗蔵の時代探訪
平成20年(2008)7月4日(金)
  鹿毛義勝様
延寿王院

五卿滞在の部屋を初めて見学西高辻家、奥様に解説して頂く。 当時の勤王の若き志士達が危険を潜り駆けつけて国を憂い、明日を語り合った部屋が今尚、其の侭残され五卿を初め志士達の緊迫した様子空気が伺い知れて感動。



宮司 西高辻家邸宅。
  宝暦
4(1754)、安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で桃園天皇より院号下賜。現在、西高辻宮司邸であり、幕末  尊皇攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在し、その間、西郷隆盛・高杉晋作ら大勢の勤皇の志士らが出入りするなど明治維新の策源地となった。
         庭園には”五卿遺跡”碑が建っている。
    

五卿が滞在した部屋 五卿がここを離れる際し残したとされる実筆の書
五卿の書
三条実美が使ったとされる部屋 五卿接見の間 五卿接見の間 五卿接見の間
延寿王院内部の五卿滞在の部屋を初めて見学、西高辻家、奥様に解説して頂く。 当時の勤王の若き志士達が危険を潜り駆けつけて国を憂い、明日を語り合った部屋が今尚、其の侭残され五卿を初め志士達の緊迫した様子空気が伺い知れて感動。

とき 平成2074日(金)

目的地 明治維新史跡探訪
講師 霊山会顕彰会福岡県支部事務局長 鹿毛義勝 様
    「延寿王院」ご案内特別講師 太宰府天満宮 西 高辻 様

行程 延寿王院→維新の館「松屋」→三条実美歌碑→月形仙蔵幽閉の地 顕彰碑→月形仙蔵墓地「少林寺」
     →野村望東尼誕生の地(赤坂3-4)→西公園内「平野國臣像」→唐人町「桝子屋」福岡藩町監獄跡
     →地行下町「平野神社」平野國臣生誕の地


五卿滞在延寿王院に滞在

      大宰府は激動する幕末政争の震源地のひとつであり、維新史の思想統一の場でもあった。
  薩長連合の母体となり、三条実美と岩倉具視を結ぶアジトでもあった。
    
    1863年の八・十八の変で
尊王攘夷派の長州藩、過激派公家が、大和行幸の際に攘夷の実行を幕府将軍、及び諸大名に命ずることを孝明天皇
      
に強要。
      徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進め徳川政権を一挙に葬る陰謀を画策していた。
    しかし薩摩藩に事前に察知され(当時未だ長州藩を対立状態)薩摩藩や松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派を快く思っていなかった孝明天皇
    や公武合体派の
 公家は連帯してこの陰謀を潰し、朝廷の尊襄派の一掃を画策。

      文久三年八月十八日会津、薩摩の藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派
      
の中川宮朝彦親王や近衛忠ひろ、近衛忠房父子らを参内させ尊攘派公家や長州藩藩主毛利敬親、定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は堺町
      
御門の警護を免じられ京都を追われた。

      
この時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美、沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた。これらにより尊攘派は一掃されたが、後に 池田屋事件、
    禁門の変の起こるきっかけになった。


    官位を剥奪され長州へ七卿落ちした三条実美ら7人の公卿は、三田尻、湯田と転々とし第一次征長戦争の停戦条約で九州へ向った。中、沢宣嘉は平野國臣
   と共に生野で挙兵、錦小路頼徳は病死。五卿全員九州入りし、
 大宰府に預けられる。宿舎は延寿王院で福岡藩の監視下に軟禁されることになった。 
  上水城、阿志岐、二日市、針摺、武蔵等に見張り番所が置かれた。

  延寿王院は現在の大宰府宮司 西高辻邸で江戸時代までは安楽寺延寿王院と呼ばれ、三条らはこの邸内で坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文等尊王倒幕の
   計画を練った。


    これら志士達が大宰府に泊まった旅籠「泉屋」「大野屋」「松屋」は今は土産品店になり屋号は其の侭残る。又二日市温泉周辺には五卿
    
達も足を伸ばしていたらしく二日市、通古賀、関屋、水城等旧家には五卿の遺墨が散見される。

月形仙蔵顕彰碑



文政11年(182855日〜慶応元年(18651023
嘉永33月家督を継ぎ、馬廻組に加わり、後大島の定番となったが間もなく辞した。万延元年5月藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王的立場から参金交代の非を説いた建白書を提出し、さらに8月には藩政の腐敗を批判した建言をした。
これが為11月捕らえられ、翌文久元年家督没収の上、三笠郡古賀村に幽閉された。
36月加藤司書らの建言により家に帰ったが、なお門外に出ることを禁止され、元治元年5月罪を許されて家禄を復し、町方詮議掛り及び吟味役を命じられ、爾来薩長二藩の融和に奔走し、長州征伐軍の解兵に努め、慶応元年正月五卿の筑前大宰府に移る折、早川養敬と下関に迎えてこれを案内した。
しかし幕府の長州再征に際して藩論一変、佐幕派の専制に帰し、加藤司書ら勤王派藩士と共に捉えられて処刑された。   38歳没

当時二日市湯町に湯治で遊んだ五卿の詩碑  

五卿公家達は、慶応3年末の大政奉還が実現するまでの3年余りに、二日市の温泉初め、大宰府周辺の勤皇派の庄屋、造り酒屋、等を訪れ、得意の和歌を詠んだ。実美は山家宿の山田勘右衛門宅に「洗心亭」の額を送り、そこで一首を残している。又阿志岐の平山洗十郎宅でも一首。大石の医師岡部忠徳宅で治療を受けた中で「いかにして つくしのうみによるなみの ちへのひとへも きみにこたえむ」等五卿の麗筆は今日まで大切に地元で伝えられている。





のはらに あそふあしたつ 
  こととはむ  なれこそしらめ 
          ちよのいにしへ
                       三条 実美

明治新政府の太政大臣で1865年大宰府落ちした後王政復古を目指し激しい心情を遊ぶ鶴に託し詠んだ  後に太政大臣も務めた 
                         「湯町大丸別荘前」

しもかれの おはながそてに
  まねかれて とひこしやとは           わすれかねつも                      東久世 通禧
1867年松尾家に招かれもてなしに対して謝意の一首 通禧は新政府で外交担当、元老院議官も勤め竹亭の雅号で歌人としても知られている      
                「武蔵八の隈池奥」
けふここに 湯あみをすれば  
  むらきもの こころのあかも          のこらざりけり

            三条西 季知

尊皇攘夷派の公家、新政府参与明治天皇の侍従となり歌道の指導をした幕府お目付け役との緊迫した中で温泉のもてなしですっかり元気になったという 「湯町」
ひとならぬ くさきにさへも
  わするなよ  
  わすれしとのみ いわれけるかな    
    三条西 季知

武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を詠んだもの 「武蔵」
ゆうまぐれ しろきはゆきか
  それならで つきのすみかの
         かきのうのはな  
                 壬生 基修

幕末尊皇攘夷派五卿の一人、新政府の参与で貴族院議員。勤皇志士達との出会いの中でも、晩春の夕暮れ、垣根に咲く白い卯の花を見て細かな詩情を寄せている。(もとなが)は新政府の参与の後、元老院議官、貴族院議員を務める。  「武蔵」
     青山白水映紅楓
   楽夫天命復何疑                       四条 隆謌

尊皇攘夷派の公家の中で只一人の軍人で戊辰戦争に錦旗奉行として参加後大阪、仙台で鎮守司令官を務める。
美しい天然を綴った漢詩と王政復古を天命として
成し遂げ様とする決意が偲ばれる。
           「武蔵」

御前湯

二日市温泉1300年前の奈良時代に既に次田の湯として大伴旅人の歌に詠まれている ここ御前湯は江戸時代黒田藩主専用の温泉として使われその名が屋号として残ったもの。幕末維新前夜の志士達特に五卿達はひと時の疲れを癒しこの温泉を利用した。

明治維新は、尊皇攘夷派公家五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌の5人)の大宰府入りが大きなきっかけになり、彼らは藩閥政治を廃し王政復古を目指した勤皇派の志士達と組み、長年の圧制に反発する農民達の世直し運動とも結び、さらに西欧列強諸国の開国要請と云う社会情勢を背景に19世紀末の政治改革を実現させた。
慶応元年(1865)2月、長州藩から筑前黒田藩が支配する太宰府天満宮延寿王院に移された五卿は、ここで薩摩の西郷や土佐の龍馬、筑前の月形仙蔵、平野國臣など勤王の志士達と新しい政治をめざし秘策を練った。これに対し幕府側は見つけ役の小林甚六郎らを派遣五卿の京都帰還を図った為、勤皇派との間で緊迫した関係が続いた。月形仙蔵は市内古賀に幽閉された後、乙丑の獄で刑死する等動乱の時代。
大凉山少林寺    
福岡市天神中央区にある浄土宗智恩院末
月形家の菩提寺  同寺は黒田長政の開基で、旧町名「材木町」が示す通り黒田城築城の時の材木置き場で、寺城3000余坪。寺領1000余石であったと伝えられる寺院。寺紋藤巴紋も黒田家と同じ。当然の事ながら山号大凉山だけに黒田の縁者の墓碑も多い。大凉山は長政夫人法号大凉院によるもの。


月形家墓碑(後裔 月形昂)
 
左端が月形洗蔵 裏に祖父質、父深蔵、叔父長野誠の教導により、文武に励み、筑前勤王等の首領として活躍。元治元年冬長州藩に入り、高杉晋作等を説いて、薩長連合の礎をを築くと共に
,五卿の西下に尽力した。慶応元年9月、薩論対立により投獄され、同年10月、同士13名と共に死罪となった。正四位贈叙。中は父深蔵 右は祖父七助(


勤王の志士平野國臣を祀る神社  生誕の地 福岡市地行下町


神社に生誕の記念碑と追慕碑
我が胸の もゆる思いにくらぶれば 煙は薄し
さくらじま山」龍馬より7歳、西郷より1歳、大久保、吉田松陰より2歳年上で尊皇攘夷派の結集を画策、諸国を奔走。
月形洗蔵
福岡市中央区西公園内に國臣の銅像、墓は京都市上京区の竹林寺に墓、なお明治政府は明治24年彼に正四位を贈っている。
文政11年(1828〜1864)福岡地行下町(現福岡市中央区)に足軽の次男として生まれる。通称源蔵、次郎一般には「平野次郎國臣」天保12年、14才で鉄砲組頭・小金丸彦六の養子となる。18才で福岡藩の普請方となり嘉永元年まで江戸勤務、21才帰国小金丸菊と結婚。ペリー来航後長崎にも勤務して、徐々に尊皇攘夷の考えを固めたと思われる。24才のとき、大島の宗像大社中津宮の営繕にかかわり、北条右門をしり勤王に目覚める。31才で福岡藩脱藩京都へ出る。
薩摩藩士らと交流薩筑連合を模索、脱藩の罪で追われながら、西国の尊王攘夷派の結集に奔走京都の公卿田中河内介ら交流又備中上人、三宅正太郎や下関商人の白石正一郎らと物産交易に従事等坂本龍馬と良く似ていることをしていた様。
西郷吉之助とも交わり、僧月照を守り薩摩へも併行、西郷の依頼で京都の梅田雲浜、梁川星厳らを訪問、幕府に不満がある公家に運動を起こすよう、説得を依頼したが、安政の大獄が始まり挫折。 
文久2年(1862)、一部勤皇の志士と共に、島津久光の上洛に合わせ攘夷決行・倒幕挙兵を企てるが、寺田や事件が勃発し挫折。 福岡藩により捕縛される
 翌年赦免され上京、学習院出仕となる。8月、天誅組の挙兵を止める為大和に居た時、「八月十八日の政変」を聞き京都に戻ったが、京都も追われた為但馬に逃れ、「沢宣嘉」を擁する挙兵に参加する。(生野の変)生野の代官所を占拠したが、怯えた沢宣嘉は軍資金を持ち逃亡し、残った浪士は近隣諸藩からの攻撃を受け、乱に動員された近在農民の反乱を受け、この決起も失敗に終わった。國臣は城之崎に逃亡中捕縛され、元治元年(1864)京都の六角獄に投獄された。
同年7月20日、2日前に起こった金門の変(蛤御門の変)で京都市中が火の海になる中、京都六角獄に火が及んだ時のことを恐れた官吏達により、罪状も決まらぬまま獄中で斬首された。
享年37才
悲劇の勤王の志士 平野國臣
平野神社内に誕生の地碑
京都六角獄

六角獄舎は、京都六角通りに面していた事から六角獄舎と呼ばれていた。その後は、天命の大火で今のNHK京都放送局辺りに移転し、昭和には山科に移転して、京都刑務所となっている。
同獄には、池田や事件の直前に新撰組に捕らえられ、拷問された桝屋喜右衛門こと古高俊太郎もいたが、同様に惨殺された。この時新撰組は天王山〜大阪方面に金門の変の残党狩りに出ていて不在であった。 こうして六角獄舎では、幕末多くの志士が捕らわれの身となっていた。
元号も改まった元治元年(1864)7月、尊皇攘夷急進派の志士が長州藩を動かし出兵、御所蛤御門を守る薩摩藩、会津藩、桑名藩兵と交戦した。「蛤御門の変」(金門の変)である。戦いは一日で終わるものの、京都の町は三日三晩にわたり「京のドンド焼け」と言われる大火となってしまう。迫りくる炎に、入牢者の脱獄を恐れた当時の町奉行、滝川播磨守具和は獄舎に対して、「火が堀川に及ぶことあらば、重罪人は全て切り捨てよと命じ、その犠牲となった一人が平野國臣だった。この時、横田友次郎靖之、大村包房、乾嗣竜、足利尊氏の木像を切った長尾武雄、池田や騒動の発端になった輪王寺の古高俊太郎ら三十余名の志士達が斬首されている。
平野國臣ら三十七士の墓は、上京区行衛町にある竹林寺にあり、又墓碑は東山区清閑寺霊山町の護国神社にある。
六角獄舎跡は中京区因幡町で、その跡地にマンションが建っているが、その一角に「殉難勤王志士忠霊碑」が残されている。マンションが建つまでは「首洗い井戸」なども残っていたと云う。
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