平成20年(2008)7月4日(金) |
延寿王院 五卿滞在の部屋を初めて見学西高辻家、奥様に解説して頂く。 当時の勤王の若き志士達が危険を潜り駆けつけて国を憂い、明日を語り合った部屋が今尚、其の侭残され五卿を初め志士達の緊迫した様子空気が伺い知れて感動。 |
宮司 西高辻家邸宅。 宝暦4年(1754)、安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で桃園天皇より院号下賜。現在、西高辻宮司邸であり、幕末 尊皇攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在し、その間、西郷隆盛・高杉晋作ら大勢の勤皇の志士らが出入りするなど明治維新の策源地となった。 庭園には”五卿遺跡”碑が建っている。
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延寿王院内部の五卿滞在の部屋を初めて見学、西高辻家、奥様に解説して頂く。 当時の勤王の若き志士達が危険を潜り駆けつけて国を憂い、明日を語り合った部屋が今尚、其の侭残され五卿を初め志士達の緊迫した様子空気が伺い知れて感動。 |
とき 平成20年7月4日(金) 薩長連合の母体となり、三条実美と岩倉具視を結ぶアジトでもあった。 1863年の八・十八の変で尊王攘夷派の長州藩、過激派公家が、大和行幸の際に攘夷の実行を幕府将軍、及び諸大名に命ずることを孝明天皇 に強要。 徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進め徳川政権を一挙に葬る陰謀を画策していた。 しかし薩摩藩に事前に察知され(当時未だ長州藩を対立状態)薩摩藩や松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派を快く思っていなかった孝明天皇 や公武合体派の 公家は連帯してこの陰謀を潰し、朝廷の尊襄派の一掃を画策。 文久三年八月十八日会津、薩摩の藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派 の中川宮朝彦親王や近衛忠ひろ、近衛忠房父子らを参内させ尊攘派公家や長州藩藩主毛利敬親、定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は堺町 御門の警護を免じられ京都を追われた。 この時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美、沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた。これらにより尊攘派は一掃されたが、後に 池田屋事件、 禁門の変の起こるきっかけになった。 官位を剥奪され長州へ七卿落ちした三条実美ら7人の公卿は、三田尻、湯田と転々とし第一次征長戦争の停戦条約で九州へ向った。中、沢宣嘉は平野國臣 と共に生野で挙兵、錦小路頼徳は病死。五卿全員九州入りし、 大宰府に預けられる。宿舎は延寿王院で福岡藩の監視下に軟禁されることになった。 上水城、阿志岐、二日市、針摺、武蔵等に見張り番所が置かれた。 延寿王院は現在の大宰府宮司 西高辻邸で江戸時代までは安楽寺延寿王院と呼ばれ、三条らはこの邸内で坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文等尊王倒幕の 計画を練った。 これら志士達が大宰府に泊まった旅籠「泉屋」「大野屋」「松屋」は今は土産品店になり屋号は其の侭残る。又二日市温泉周辺には五卿 達も足を伸ばしていたらしく二日市、通古賀、関屋、水城等旧家には五卿の遺墨が散見される。 |
五卿公家達は、慶応3年末の大政奉還が実現するまでの3年余りに、二日市の温泉初め、大宰府周辺の勤皇派の庄屋、造り酒屋、等を訪れ、得意の和歌を詠んだ。実美は山家宿の山田勘右衛門宅に「洗心亭」の額を送り、そこで一首を残している。又阿志岐の平山洗十郎宅でも一首。大石の医師岡部忠徳宅で治療を受けた中で「いかにして つくしのうみによるなみの ちへのひとへも きみにこたえむ」等五卿の麗筆は今日まで大切に地元で伝えられている。別 |
ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ 三条 実美 明治新政府の太政大臣で1865年大宰府落ちした後王政復古を目指し激しい心情を遊ぶ鶴に託し詠んだ 後に太政大臣も務めた 「湯町大丸別荘前」 |
しもかれの おはながそてに まねかれて とひこしやとは わすれかねつも 東久世 通禧 1867年松尾家に招かれもてなしに対して謝意の一首 通禧は新政府で外交担当、元老院議官も勤め竹亭の雅号で歌人としても知られている 「武蔵八の隈池奥」 |
けふここに 湯あみをすれば むらきもの こころのあかも のこらざりけり 三条西 季知 尊皇攘夷派の公家、新政府参与明治天皇の侍従となり歌道の指導をした。幕府お目付け役との緊迫した中で温泉のもてなしですっかり元気になったという 「湯町」 |
ひとならぬ くさきにさへも わするなよ わすれしとのみ いわれけるかな 三条西 季知 武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を詠んだもの 「武蔵」 |
ゆうまぐれ しろきはゆきか それならで つきのすみかの かきのうのはな 壬生 基修 幕末尊皇攘夷派五卿の一人、新政府の参与で貴族院議員。勤皇志士達との出会いの中でも、晩春の夕暮れ、垣根に咲く白い卯の花を見て細かな詩情を寄せている。(もとなが)は新政府の参与の後、元老院議官、貴族院議員を務める。 「武蔵」 |
青山白水映紅楓 楽夫天命復何疑 四条 隆謌 尊皇攘夷派の公家の中で只一人の軍人で戊辰戦争に錦旗奉行として参加後大阪、仙台で鎮守司令官を務める。 |
御前湯
二日市温泉1300年前の奈良時代に既に次田の湯として大伴旅人の歌に詠まれている ここ御前湯は江戸時代黒田藩主専用の温泉として使われその名が屋号として残ったもの。幕末維新前夜の志士達特に五卿達はひと時の疲れを癒しこの温泉を利用した。 |
明治維新は、尊皇攘夷派公家五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌の5人)の大宰府入りが大きなきっかけになり、彼らは藩閥政治を廃し王政復古を目指した勤皇派の志士達と組み、長年の圧制に反発する農民達の世直し運動とも結び、さらに西欧列強諸国の開国要請と云う社会情勢を背景に19世紀末の政治改革を実現させた。 慶応元年(1865)2月、長州藩から筑前黒田藩が支配する太宰府天満宮延寿王院に移された五卿は、ここで薩摩の西郷や土佐の龍馬、筑前の月形仙蔵、平野國臣など勤王の志士達と新しい政治をめざし秘策を練った。これに対し幕府側は見つけ役の小林甚六郎らを派遣五卿の京都帰還を図った為、勤皇派との間で緊迫した関係が続いた。月形仙蔵は市内古賀に幽閉された後、乙丑の獄で刑死する等動乱の時代。 |
大凉山少林寺 福岡市天神中央区にある浄土宗智恩院末 月形家の菩提寺 同寺は黒田長政の開基で、旧町名「材木町」が示す通り黒田城築城の時の材木置き場で、寺城3000余坪。寺領1000余石であったと伝えられる寺院。寺紋藤巴紋も黒田家と同じ。当然の事ながら山号大凉山だけに黒田の縁者の墓碑も多い。大凉山は長政夫人法号大凉院によるもの。 |
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勤王の志士平野國臣を祀る神社 生誕の地 福岡市地行下町 |
神社に生誕の記念碑と追慕碑 |
我が胸の もゆる思いにくらぶれば 煙は薄し さくらじま山」龍馬より7歳、西郷より1歳、大久保、吉田松陰より2歳年上で尊皇攘夷派の結集を画策、諸国を奔走。 |