筑紫野万葉句碑めぐり

平成15年4月11日(金)

平成15411日(金)

語る会バス探訪に初参加したもののハップニングで大失態!    当初バス探訪なるものが判らず事務局の方にお断りもなくバスに乗り込み参加してしまった。何も知らない私はガイドさんの説明を一番前で得意げに聞き入っているところに語る会事務局の方に見つかり 闖入者一名 ただごとならんと、この人誰?となり大騒ぎ一部始終を包み隠すことなく説明して納得して頂いた次第。勿論会費もここで支払いを済ませ一件落着事なきを得た。ことからのスタート語る会大好きで大のファンとなった次第!!

雨模様のスッキリしない天気朝9時大宰府駅前出発、筑紫野の歌碑/句碑を巡る。筑紫野は万葉の昔から政治文化の要所として栄え今も至るところに「史跡」が多く残っています。大宰府が太宰の師として大伴旅人、筑前の守山上憶良等を迎えにわかにその近郊が万葉の歌枕となったそうです。このあたりを数多く詠いあげています。

 目的 筑紫野の万葉歌碑・句碑を訪ねる
 講師 筑紫野市観光協会 会長久芳 康紀さん

探訪コース 
 大宰府駅→湯町→天拝公園→武蔵寺→八の隈→生涯学習センター→阿志岐六本松→吉木→中阿志岐→上古賀→天拝湖公園→山神ダム

御前湯

二日市温泉1300年前の奈良時代に既に次田の湯として大伴旅人の歌に詠まれている。ここ御前湯は江戸時代黒田藩主専用の温泉として使われその名が屋号として残ったもの

けふここに 湯あみをすれば  
  むらきもの こころのあかも          のこらざりけり

         三条西 季知

尊皇攘夷派の公家、新政府参与明治天皇の侍従となり歌道の指導をした幕府お目付け役との緊迫した中で温泉のもてなしですっかり元気になったという
   「湯町」 

ひとならぬ くさきにさへも
  わするなよ  
わすれしとのみ いわれけるかな            

          三条西 季知

武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を詠んだもの「武蔵」

鶯や 破るる夢も 惜しからん    温泉に通う 
   下駄と雲雀の 声高し                      立花 秋水

江戸末期黒田藩家老で千鳥庵とも号した。湯の里一興は近世の二日市を記した日記風の書
「武蔵」

しもかれの おはながそてに
  まねかれて   とひこしやとは わすれかねつも                            東久世 通禧

1867年松尾家に招かれもてなしに対して謝意の一首「武蔵八の隈池奥」

青山白水映紅楓
   楽夫天命復何疑                       四条 隆謌

尊皇攘夷派の公家の中で只一人の武人。美しい天然を綴った漢詩と王政復古を天命として成し遂げ様とする決意が偲ばれる。「武蔵」

のはらに あそふあしたつ 
  こととはむ  なれこそしらめ 
          ちよのいにしへ
                               三条 実美

幕末尊王攘夷派の公家、明治新政府の太政大臣で1865年大宰府落ちした後王政復古を目指し激しい心情を遊ぶ鶴に託し詠んだ 「湯町大丸別荘前」

鶯や 破るる夢も 惜しからん
 温泉に通う
  下駄と雲雀の 声高し                    
         立花 秋水

江戸末期黒田藩の家老で俳人,千鳥庵と号した。湯の里一興は、近世の二日市を記した日記風の書、自然味溢れる古い湯町を詠んでいる。  「武蔵

離家三四月 落涙百千行 
 万事皆如夢 時時仰彼蒼                         菅原 道真

故郷を離れて数ヶ月、とめどもなく涙が頬をつたう。全ては夢と思うほかなく、今は天を仰いで我が身の運命を訴えるだけだ。管家後集の冒頭の一句「武蔵」



ゆうまぐれ しろきはゆきか
  それならで つきのすみかの
         かきのうのはな            
          壬生 基修 

幕末尊皇攘夷派五卿の一人、新政府の参与で貴族院議員。勤皇志士達との出会いの中でも、晩春の夕暮れ、垣根に咲く白い卯の花を見て細かな詩情を寄せている。「武蔵」

葦城野は
 今日を始めて 万代に見む
          
読み人知らず

おみなへしと萩が入り混じって咲いている。秋景色に溢れる葦城野は、今日からずっと何時でも眺めを楽しもう。大宰府役人が宴を張った時に詠った。「吉木」

二日市温泉御前湯隣りに薬師如来が奉ってあります。温泉発祥の場所だそうです。「筑前国続風土記付録」絵図(1800年頃?)には6ヶ所が描かれているとのこと。薬師湯、御前湯、助湯、川湯3ヶ所,留湯は一般の人の入湯を禁じた温泉で黒田藩主専用の温泉「御前湯」の事,又助湯(介湯)はその補助的な温泉、川湯は文字通り鷲田川畔に湧き出た公衆浴場で湯治客が入った温泉だそうです。中でも薬師如来にちなんで名付けた薬師湯は古来の温泉だそうです。

驚きは博多の豪商渡辺与三郎が二日市温泉の発展に大きく関わっていたこと。1900年頃この湯町開発で江戸時代の旅籠とは違う温泉町をと商都博多の将来を考えこの温泉が好適な商談の場となると見て資本投資していた様です。さすがに先見の明があり、この卓抜した商才感覚が今日なお博多での有力な経営者として子孫の方が引継いでおられるものと思います。.

温泉の宿の 朝日の軒の 照紅葉         
         
高浜 虚子

ほととぎす派の巨匠、高浜虚子が昭和30年(1955514日二日市に遊んだ時の一句

(湯町の玉泉館玄関)

官公が天拝山に登り無実を訴える為、身を清めたとされる紫籐の滝です。この左横にはみそぎをする時に衣を掛けた衣掛石があります。この奥に古い石塔がありその台石に漢詩が彫られている「天判峯頭仰彼蒼 願心成満放威光」、、、正平20225日 正平20年は1365年南北戦争時代に天満宮ゆかりの僧侶により書かれたもので古い。(武蔵寺)

湯の原に  鳴く葦田鶴は
  わがごとく
   妹に恋ふれや 時わかず鳴く
                     太宰師大伴旅人

湯の原で鳴いてる鶴は、私のように亡き妻を恋い慕うのであろうか。鳴きどおし鳴いている。湯の原で鳴いてる鶴は、私のように亡き妻を恋い慕うのであろうか。鳴きどおし鳴いている。
ご案内頂いた久芳さん「湯町」

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