阿南様
「菊池一族の息吹と足跡を訪ねて」
平成18年(2006)4月7日(金)

〜菊池と太宰府の古くからのつながり〜

日時 平成
1847日(金)

ところ:菊池神社→歴史資料館→内裏尾の征西将軍宮跡(雲上宮)、守山城→菊池公園の菊池武光銅像→正観寺
          →菊池城跡(則隆墓所)→菊池市まちかど資料館「蒙古襲来絵詞」武房

講師:菊池神社宮司坂本晃様    
      菊池市教育委員会文化財課 阿南様

菊池一族(郷土史家 中尾 康幸氏著書より)

 今から1200年程前、朝鮮半島の百済が新羅、高句麗に滅ばされた折、多くの百済の高官が九州に落ち延びて来た。そして北からの侵攻に備え太宰府に大野城、佐賀県に基肆城を築き。熊本には鞠智城を築いて、九州の南部を固めた。
菊池城は穀倉地帯を周囲に控え、山岳地帯を天然の山城に活用したもので、その後平安、鎌倉、室町時代にかけて、菊池氏はこの付近を根拠地として活躍してきた。菊池氏は自らの出自を「中の関白藤原道隆 4代の子孫 大夫将監 則隆」と名乗っているように、太宰府の高級役人として肥後に赴任し、舟運に便利な菊池市深川に館を構えたのが始まりで、菊池を族称にした。

その時以来累代に亘り、朝廷に最も近い藤原氏を祖先にもつ家柄を誇りとして家名を汚さないことを信条としてきたが幕府が台頭し政治を代行し始めたので、菊池氏の収入源海外貿易権を取られ幕府と対抗するようになった。この争いは菊池氏6代隆直の時と南北朝時代前から始まり、南北朝の合一後まで続くことになる。
隆直は平氏の九州支配に反抗し太宰府を攻めるが敗北、1185年の壇ノ浦では源氏に破れ領地失う。 

以降 戦乱の世、幕府と朝廷の間を上手く泳いだ領主達が長く栄えたが、菊池氏は幕府に対し安易な妥協をすることなく、ついに力で滅ぼされる。24代で正統派絶えた。しかし一貫して初志を貫き初代菊池則隆以来、24代500年にわたって栄えた。    

菊池神社

菊池市を見下ろす菊池本城址に、明治3年創建。菊池武時(12代)、武重(13代)、武光(15代)を主神に一族26柱を祀り、隣接する城山神社に武房(10代)を祀る。
・12代武時→後醍醐天皇の勅詔と錦旗を奉じ太宰少弐、大友等九州の有力武士と九州探題の北条英時を攻略するも
 両氏が離脱全員戦死。戦い前に長男武重に菊池に戻り天皇の為に再び立ち上がれとの遺訓を残し自害「袖ヶ浦の  戦い」として語り伝えられ、後の 楠木正成の「桜井の駅の別れ」のモデルになったという。
・13代武重→新田義貞の軍に従い、「箱根・竹下の戦い」で千本槍を考え、菊池の名を高める。菊池家憲を定める、大 地禅師を向かえ「聖護寺」を建て禅の教えを受ける。
・15代武光→菊池城を取り戻し、征西将軍懐良親王を迎える。1359年、筑後川の戦いで親王・武光軍が幕府軍を破り
 南朝の力を天下に示す。1363年、太宰府に征西府を移し九州が統一される。
十八外城の中心菊池本城 

 守山城、雲上城、隈府山城ともいい、菊池市隈府の北側にある城山という丘陵地(110m)にあった。
 菊池氏の本拠は、15代武光までは、初代則隆が築いたという菊之池城(菊池市深川)にあったようですが、応安6・文中2(1373)年に菊池城に本拠を移された。菊池本城の築城年代については、16代武政が築城したとも伝えられていますが、はっきり分かっていないが、城の遺構としては城の北側に底幅9m、長さ60m、縁に高さ3mほどの土塁が認めらている。戦乱が長期化・広域化するにつれ、自然の地形や山寺を利用した支城の役割が重視され、支城は相互に、また本城と連携をとり堅固な防御線を築きます。ことに菊池では十八外城が知られている。
菊池武光公の墓所

 元弘3年(1333)後醍醐天皇の命により博多の鎮西探題襲撃を前にした12代武時公、幼い武光を博多
聖福寺に預けた。後に15代を継いだ武光は、命の恩人聖福寺の大方元恢和尚を招き正観禅寺を興国5
年(1344)に建てた。南北朝争乱期、南朝方後醍醐天皇は九州の勢いを盛り返すべく征西将軍として懐
良親王を派遣したが、足利幕府の勢力が強い中で、親王を迎え入れたのは武光であった。親王は武光の
協力により正平20年(1365)に九州を平定、太宰府に征西府を樹立したが、文中元年(1373)幕府は知将
今川了俊を派遣大攻勢に転じた。この攻防戦で武光は、文中2年(1374)に没した。傍の大楠は墓印とな
っている。
菊池武光公の墓所
正面墓碑右側が武政、左上段が武澄、下段が武国
正観寺の礎石群

 菊池一族の菩提寺で菊池武光公により興国5年(1344)建立。菊池氏全盛の頃は末寺10数寺を抱え、全国十刹の一つに数えられた西国屈指の寺院であった。ここにある堂は近世末に改築された地蔵堂で県下最大級の「木像地蔵菩薩像」が安置されている。左の礎石群は原初の礎石20個とみられている。礎石は大半が火にあっており、表面が剥離しているものがある。周囲から布目瓦が出土していて、平安中・後期に建立された寺院跡で瓦葺の堂宇や庫裏があったと思われる。この寺は武光以前の古寺で、その焼けた後に正観寺が建てられたらしい。
この境内に上記菊池一族の墓所が並んでいる。
菊池武政、武澄、武国公の墓所

武政は15代武光の嫡子で16代肥後守(1367) 九州を二分する宮方と武家方の戦いで在った筑
  後川(大原)の合戦で小弐軍6万を急襲し宮方の勝利をもたらした。大宰府攻防戦では九州探
  題今川了俊によ り高良山まで退却したが在城の懐良親王と共にこの陣で大宰府の回復に努
  め た。父武光と共に終生  南朝に尽く  し33才で攻防戦で戦死。
武澄は12代武時の子、九州探題北条館へ討ち入り戦死した父武時に対し朝廷より忠厚の恩賞
  として、子 武 澄に建武元年(1334)肥前の守を任ぜられる。弟武光を補佐し各地を転戦功績を
  残す。
武国は15代武光の弟武尚の子で高瀬十郎と称した。肥後守護代武朝を助けている、菊
  池勢を追って  筑後か ら肥後に入った今川了俊と水島(現七城町内)の台(うてな)城で勝利を
  得た。又筑前での今川仲  秋との合 戦で戦功を立てた勇将。
将軍木

根回り10m、幹囲8m、枝張りは東西に24mに達する椋(むく)の巨木。樹齢600年
この木は南北朝時代、征西将軍宮懐良親王が当時勢力のあった菊池氏を頼りこの地に征西府を置かれ
た時、宮の杖から芽が出たともいわれ懐良親王にちなんでこの名がつけられた。
今、菊池神社のご神木となっている。10月13日秋祭りには隣接の能舞台でこの木を将軍宮の象徴に見
たて国選択無形文化財「松囃子能」が奉納されている。
菊池松囃子能場

 この能舞台は寛政8年(1796)に再建されたもの。元文元年(1736)は定舞台であり
焼失の為仮舞台で松囃子能が続けられてきた。
この松囃子御能は天下泰平を祈願したもので、南北朝時代15代菊池武光が
征西将軍懐良親王を隈府に迎え、年頭の祝儀として正月二日に菊池本城で
催したのが始まりで今日まで六百数十年も継承されて来た神事能。
現在では菊池神社秋季大祭の初日10/13奉納神事として、将軍木を親王に
見立てて行い、素朴な形式は能楽以前、猿楽が神事能に移行した当時の形態
を保持したものとして国選択無形民族文化財に指定されている。
菊池神社本殿前 菊池神社本殿前
菊池則隆の墓

 藤原則隆は大宰府天満宮領赤星荘園の荘官として延久2年(1070)、菊池平野の一角
深川に拠って居城を構え、地名をとって菊池の氏とした。
深川は穀倉地菊池の中心地で当時は佐保川から菊池川本流に通じる交通の要衝でもあ
ったので、この地を拠点に勢力を伸ばし早鷹天神(菊池市赤星)・老松天神(西合志町弘
生)・山崎天神(熊本市)・田口天神(甲佐町)および玉名市の川崎・高瀬・津留の天神を
勧請した。これらは菊池氏が荘園の防備保全のため勧請した荘園神でもあり、荘園内での
押領など不法を働く荘官、住人に対し天神の怨霊の力を示すものでもあった。
この地には南北朝の頃まで累代居館が続いた。
熊耳山正観寺

 元弘3年(1333)、12代武時が博多鎮西探題を襲撃した折、幼少の武光は博多臨済宗
聖福寺に匿われ、菊池に無事送り返された。その恩義を忘れなかった武光が、同寺の大
方元恢を招いて興国5年(1344)建立した寺院である。同寺にある「洪釣堂」の額は元恢
和尚の真筆である。武光は寺領66町を寄進し、菊池氏全盛の頃、境内には万松院など
14坊や堂宇が建ち並び、宝徳3(1451)年、20代為邦の頃には、全国10刹の一つに数え
られ、代々碩学の高僧が輩出した西国屈指の大寺院であった。
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