とき:平成21年(2009)11月13日(金)
テーマ:大宰府の「桧垣」コース探訪
講師:大宰府を語る会 木村 敏美会長
コース:太宰府駅←白川橋←鼓石公園←多々良川橋←垣添
「桧垣」と大宰府」
謡本「桧垣」主人公と大宰府の関係について、「大宰府を語る会会誌19号」30周年特集号に
木村先生から詳細な関連記事が紹介された。その桧垣の媼が大宰府と関係があり、当時(平安中期)
「後選和歌集」や「大和物語」「桧垣媼集」の歌物語のヒロインとして登場する桧垣が此処
大宰府の地に若かりし頃、住み過ごしたことがあるとされるその白川を訪ね、当時絶世の美人白拍子
の当時の桧垣に思いを馳せたひとときであった。生憎当日は雨模様の悪天候でもあったが、
無事垣添公園での記念撮影を終え無事終了。
桧垣は平安時代の女流歌人で桧垣が作った和歌が「後選和歌集巻17 雑歌3」951〜961年?に
年ふれば わが黒髪も 白河の
みづはぐむまで 老いにけるかな
同様の歌が平安時代の説話集「大和物語」955年頃に、又「桧垣媼集」990年頃にもある。
これを題材にして室町時代「申楽談義」に「桧垣の女 世子作」として世阿弥元清(1363〜1443)の謡曲「桧垣」が出来ている。
1、謡曲「桧垣」のストーリー
肥後の国岩戸と云う山で、霊験あらたな観世音を信仰し、又この地の美しい景色を楽しみながら三年の間山籠りしている僧があった。この僧のもとに何処からともなく、閼伽の水を捧に来る百歳に近い老婆があった。僧は常々不審に思っていたので、一日老婆に向かって名を尋ねると、彼の後撰集の歌に、「年ふれば我が黒髪の白川のみつわくむまで老いにけるかな」と詠んでいるのは自分の歌であると答えた。
さてはその昔筑前の大宰府に庵を結び、桧垣をしつらえて住んでいた白拍子、後には衰えて此の白川の辺りで果てたと聞いているその女の霊なのかと、僧はまことに奇異の思いをしたのである。
老婆は在りし日、藤原興範(おきのり)に水を乞われた時のことを語り、そのしるしを見たければ、白川の辺りでわが跡を弔って賜れと言い置いて姿を消した。僧はすぐに白川のほとりに赴きねんごろに読教していると、先の老婆が再び現れて、弔いを喜ぶように、昔水を汲み、舞を舞った時のあり様を見せ、なおも弔ってわが罪をうかめてくれと頼み、姿微かに帰り去るのであった。(謡本より)
桧垣媼の墓は謡曲後段の舞台 桧垣が住んでいたとされる熊本市蓮台寺にある。
桧垣の墓がある蓮台寺 |
桧垣の墓 |
謡曲桧垣と蓮台寺解説 |
2、桧垣媼と大宰府の関係
*歌を詠みかけた相手が三通りあるとされる。成立年代とそれぞれの歌。
「後撰和歌集」・・・太宰大弐藤原興範(844〜917) 成立年代 (951〜961)
年ふれば わが黒髪も 白川の みづはぐむまで 老いにけるかな
「大和物語」・・・・追捕使長官小野好古(884〜968) 成立年代 (955頃)
むばたまの わが黒髪は 白川の みつはくむまで なりにけるかな
「桧垣媼集」・・・・肥後守清原元輔(908〜990) 成立年代 (990頃)
老いはてて 頭の髪は 白川の みづはくむまで なりにけるかな
1)「後選和歌集」と「桧垣」
「後選和歌集」は平安中期951年(天歴5)村上天皇の命により編纂された勅撰和歌集、後醍醐天皇の勅撰古今和歌集に次いで二番目の勅撰集。梨壺の寄人(よりんど)清原元輔(908〜990)ら五人が撰和歌。
清原元輔は974年(天延2年)周防の守に任じられ、娘清少納言も一緒に4年間行き此の時までには出来ている。
「後撰和歌集」の桧垣の媼の和歌の有力な選者として当時肥後の国司として赴任していた清原元輔は、桧垣とも交流があり、しかも勅撰とあり架空の人物とはおもわれず、「桧垣」は実存したと考えられる。
2)「桧垣」と「藤原興範」
「後選和歌集」に登場し水を所望する大弐藤原興範朝臣は917年(延喜17)74才で参議近江の守の地位で没す。太宰大弐には
902年(延喜2)従四位下で就任。実存の人物である。
丁度 その頃は菅原道真が太宰権帥として大宰府に左遷され蟄居の身で、流刑・左遷の目的で任命された権帥、実質的に次官としての職務を遂行したのは藤原興範 二人は長官、次官としてともに生活している。
此の頃には未だ桧垣は生まれていないのではと思われ藤原興範と桧垣が出会うには少々時間的なずれがあるので謡曲の内容は
この部分は事実と異なっている。
3)「桧垣」と「清原元輔」
清原元輔が肥後の国司として赴任するのが986(寛和2)79才の高齢、そして990年頃任地で亡くなったとの説と、4年の任期を終え帰京後990に亡くなったとも云われている。が任地熊本で亡くなった説が濃厚との事(日本歴史大辞典)となると
「後撰和歌集」に桧垣の和歌を入れることは肥後国司の時代には遅すぎて不可能のとのこと。
4)「大和物語」と「桧垣」
「大和物語」は、全部で173段、約300首の和歌が含まれ、各段ごとに和歌にまつわる説話や当時の天皇、貴族、僧など実在の人物による歌物語の集大成。
939(天慶3)政庁、鴻ろ臚を焼き観世音寺の鏡四面、太刀等略奪し見るも無残な大宰府にしたあの「藤原住友の乱」,その反乱軍鎮圧の為、朝廷は追捕使長官として小野好古を派遣(遣隋使小野妹子を祖とし、なお小野道風は弟)、功績を挙げた後、
太宰大弐として長官を務め、曲水の宴を始めたことで知られる。 尚 現在の大宰府在住の南小野、東小野、西小野三家は小野好古の子孫。 純友撃退後、好古は行方不明の桧垣を探し尋ねたとのこと。純友の乱で桧垣は頭も白くなりひどい有様の為に以来恥じて家から出て来ないままになった。そこで、むばたまの・・・・・を作りよこしたとのこと。
その後好古は凱旋帰京、白拍子歌人としての桧垣も名が巷にも知れわたり清原元輔らにも強い印象を与え951(天歴5)から編纂作業に入った「後撰和歌集」に選定されたとのこと。
5)桧垣は大宰府の何処に住んでいたの?白川はどこ?
*木村敏美会長宅に伝わる古地図「大宰府旧蹟全図」より(北図の製作者は原八坊、六度寺の船賀法印とされる)
「大和物語」で小野好古が桧垣を訪ねたところが白川。現在の行政地区の白川は旧大宰府に小字名もなく、横岳、横岳口になっている。が木村会長宅に伝わる江戸時代後期(1806(文化3)製作)の「大宰府旧蹟全図」の北図には白川が明記されている.御笠川の本流でなく天拝山、二日市温泉、湯町から流れる鷺田川(次田川)が白川となっている。
大宰府旧蹟全図
の北図 |
大宰府旧蹟全図の
中の白川 |
鼓石(ツヅミ)付近の
拡大図 |
*「白川」と「福岡県地理全誌」
明治初期に編纂された福岡県地理全誌の「巻之一107御笠郡の五 宰府村 御笠川」の項には、御笠川の下流、それも思川の下流を白川と云うと書かれている。 又「御笠郡之6 通古賀村 白川」の項にあの平安時代の和歌集「後撰集17」を引用している。 「筑紫の白川と云う所に住み侍けるに、大弐藤原興範朝臣の、、、、、年ふれば、、、、」又「一説に、白川は御笠川の中にありと。古歌に 白川の波打ちかくる鼓石 君か八千代を はやす音して 歌人不知」が書かれている所から
@白川が御笠川の中にあること
A白川の水打ちかけるけるところが、鼓石であること
B「思川」の下流が「白川」であることが この地理全誌でハッキリした。
*鼓石と「大宰府旧蹟全図」
北図に鼓石は3カ所でている。「ツヅミ石サイフ分」「ツヅミ石クハンゼ分」「ツヅミ石通古賀分」 「御笠川の中。本村地内に、鼓石と唄われる石ありて、其の所の字を鼓石と云う」元々一か所であったと思われる鼓石、大雨豪雨で川の流れが
「鼓石」を分断したものと思われる。鼓石の小字名は、明治15年の旧大宰府と旧観世音寺村区域では小字地名として記録があるが、通古賀村の小字名としては残っていない。 現在鼓石公園として近くに二カ所の公園が出来ている。
*桧垣はどこに住んでいたの?
「垣添」と云う地名が通古賀にある。榎寺から西鉄踏切を渡り二日市からの鷺田川の多田良橋に出て、此の手前福岡側川沿いの辺りが「垣添」地区 大宰府政庁の役人からの白拍子の舞を所望されたり、大宰府に客人に対する歌や踊りを演じて見せる桧垣の姿が思い浮かぶ。
桧垣が住んだと思われる垣添地区にある公園 |
由緒ある地名小字
桧垣を残す記念碑
とある |
*「白川」と「白川橋」
御笠川は、宝満山を源流とし、標高200mの集落北谷村を「北谷川」として流れ下り、松川(まつごう)を経て「三浦橋」から三条の「岩淵川」、連歌屋の「岩踏川」、新町・五条の「白川」、観世音寺のあたりで「思川」と名を変えて流れ下り、水城大野で「御笠川」となり、さらに、博多で「石堂川」となり博多湾に注ぐ川と理解していた為、大宰府からの御笠川に二日市から杉塚、通古賀の落合で合流する鷺田川が「白川」と云われても納得行かないと木村先生、、、
建重寺橋の次の下流の橋が「白川橋」 橋のたもとに立派な「白川橋」の石碑あり、書は五条の大藪善助氏で明治15年壬午6月架之の書。白川橋建設にご芳志された寄付人名が記され木村先生の曾祖父名も確認される。
「福岡県地理全誌」の完成明治13とほぼ同時期で、この中では「白川橋」も新町の「建重寺橋」も当時まだはらしいものは架かっていなかった様。
「福岡県地理全誌」の中で「白川」は「御笠川」の中にあり、「思川」の下流にあること、さらに白川の波が打ち掛けるところが鼓石である事を重ねると現在の白川に近いことが判る。
白川橋の上流
建重寺橋 |
建重寺橋より
白川橋下流 |
明治15年架橋白川橋(大藪善助書) |
現在の白川橋木製で橋名が書かれている |
架橋時の芳志者名 |
明治15年壬午6月架之の碑 |
鷺田川との合流点
ただら橋 |
ただら橋より御笠川下流をのぞむ |
*「白川」と「参詣道案内」
1799(寛政11】正月刊行で著者は、博多俗仙庵散人画瓢坊披雲、発行元は玉照堂梓。
先の1806(文化3)に刊行された「大宰府旧蹟全図」北図は殆ど同時期に出来ているが「白川」の位置説明に違いが出てある 白川について参詣道案内は「崇福寺跡の山際より流れ出る川なり。今は名のみ残りて溝のごとく流れる。昔、藤原純友公に叛きて四国より逃げ来たりしを、小野好古朝臣 勅を受け追い来たりし時、桧垣の女が家の有りしわたりを訪ねしは此の処の事なりとかや。その時の歌に 年ふれば わかくろかみも 白川の みつはくめまで 老いにけるかな 桧垣媼」
「岩踏川 天満宮御社の北にあり、宇美山より宰府へ越来る道なり、歌に 宇美山を 越へ来たれば 御笠なる
いわふみ川に 駒なつむなり 為頼」
「思 川 是宰府の町北高橋口より出でくれば石橋在る処なり。岩踏み川白川の下流にて藍染川も此辺に流出、三つの流れ落合う故に思い川に名ありとそ。歌に 更行は おなしほたるの 思い川 ひとりはもへぬ かけや見ゆらん 信家」
*「白川」と「筑前国続風土記付録」
筑前地誌を本文と詳細な絵図によって五十巻に記録整理したもので、1798(寛政10)加藤一純が完成
「参詣道案内」より1年前に刊行され、大宰府天満宮ドンカン祭り「天満宮絵図」の榎寺のそばに「サイワイハシ(幸橋)の小橋が描かれ、流れる川に「白川」と四隅囲みではっきりと表記されている。
*「白川」と「筑前名所図会」
1821(文政4)奥村玉蘭の絵図で「白川」は「榎寺の南になかるる川なり」とある。
玉蘭は1761(宝暦11)生まれ、醤油醸造元の当主。「1790(寛政2)「寛政異学の禁」で藩校「甘棠館」の学長亀井南冥を自宅に匿ったかどで廃業に憂き目をみる。その後当時の観世音寺村に草庵を結び移り住む。(今の観世音寺区公民館の西隣)玉蘭屋敷と呼ばれる。
*桧垣について?
「大宰府の歴史5」で山内勇哲さんが文学の中のフイクションとして年代的な矛盾を書いておられました。
大弐藤原興範が「後撰集」に小野好古が「大和物語」に、「桧垣媼集」に清原元輔と3人が主人公で出る。興範が大弐になったのが902年、小野好古が純友の乱で筑紫に下ったのが941年、元輔が肥後守になったのが986年で、3〜4年は肥後守をしていた事を思へば、990年に83歳で亡くなっている。元輔が会った桧垣は最初の興範あったばかりの時から真っ白毛の婆さんで歌を詠んだと云うのは矛盾するので、どこかにカラクリ、つくり話があり、どこかにフィクションがあると、、、、、
今後、又いろいろな新説が出ることも期待しながら想像逞しくして当時の桧垣を偲んで楽しみたい。
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