ふるさとさせぼ 1
1、明治大正時代時代の佐世保
   お断り 芸文堂さんの「古地図と古い写真で見る佐世保の変遷」の一部をお借りしています。
明治22年(1889年)の海軍鎮守府の開庁まで、西海の一寒村にすぎなかった佐世保は、鎮守府の設置を契機に、この一世紀の間に巨大な軍港都市に成長、そして敗戦、再び基地と造船の町へと著しい変貌を遂げてきた。それらの時代を、ひたすら生き抜いて来た人々には、一枚一枚の地図写真が、それぞれの時代の原風景となっている。
子供の頃を佐世保で共に遊び過ごした懐かしい想い出を当時の風景写真に触れながらタイムスリップして蘇らして下さい。


H7年の佐世保港

明治初期の佐世保浦と教法寺付近   江戸時代の面影を残す現在の元町、教法寺付近の風景。左が教法寺で、商家、漁家が続く小さな浦町であった。後方は烏帽子岳。中央の前方に江戸時代に干拓された中島新田が広がっている。うしろの小さな山は島地山。軍港以前の佐世保の原風景を知ることのできる貴重な写真。

明治23年の佐世保軍港 明治22年鎮守府開庁 翌年に撮影されたもので中央が天皇のお召艦「高千穂」 写真の祖上野彦馬の撮影

明治26年頃の佐世保の風景 朝永忠三郎氏のスケッチで中央に海兵団、右下に佐世保橋が架かり、現在の浜田町本町付近に人家が集中している。手前の大きな道路がのちの「本通り」現在の「四ヶ町アーケード、三ヶ町サンプラザ」になる道で人家は殆どない佐世保川沿いの湊町には家家や船が集ってる。現在の四ヶ町は湿地帯の新田だった。

明治36年頃の海軍鎮守府と佐世保川 住宅地が佐世保橋後ろの元町から、大久保町、矢岳町に拡大している。
明治40年頃の佐世保川 右が海兵団左は現在の湊町、多数の小船が繋がれ、魚や野菜市場として賑わっていた。商店や人家も多く人々は「海岸」と呼んでいた。

明治43年の佐世保市庁舎落成式(木造2階建、青色の美しい庁舎であった)

明治末期の佐世保市北部 中央の大きな建物が市庁舎、手前が高砂町、 左が木場田町、背後の斜面が福田町である

佐世川に架かる相生橋と「いろは楼」 いろは楼は高級料亭の一つ

佐世保橋から海軍橋へ 後方は海軍下士官兵集会所と海軍凱旋記念館

大正初年の湊町の渡し場と市場 佐世保川左岸の湊町は、周辺地域から野菜、魚等の物資が集り、市場が開かれ大いに賑った。写真右に見えるのが名切川に架かる湊橋、現在橋から名切川下流は暗渠で市営駐車場となっており橋のイメージはもう無い

本通りに面する浅井呉服店(本島町)大正時代の松浦町「本通り」 この頃の商業中心地は、松浦町、常磐町の「本通り」であり、現在の三ヶ町サンプラザ通り

名佐世保川沿いの共済病院  明治44年に開院した海軍職工共済会立病院、のちの海軍共済組合病院、現在の共済病院である。佐世保川左岸の島地山の斜面を切り崩した高台にあり、写真の左に湊橋が見えている。付近には多くの小船が集っている。

本通りに面する浅井呉服店(本島町)

田中丸呉服店 佐世保支店 大正9年(1920)に完成 現在の玉屋 玉屋90年史より

浜田町本通りの森薬舗 大正時代の店舗の様子が伺える

佐世保駅前の前田旅館 明治31年(1898)佐世保駅が開業 駅前に旅館や商店が立ち並ぶようになった。

相生町本通の糸山呉服店 恩師糸山法蔵先生のご実家と思われる

弥生座浜田町にあった芝居小屋

佐世保鎮守府司令長官官舎

大正末期の佐世保中心街   中央右の大きな建物が田中丸呉服店(現在の玉屋デパート)、左上に延びているのが「本通り」(現三ヶ町サンプラザ透り)、右上に弥生座、中央のうしろに宮地岳神社と九品寺が見える

常磐町の新免商店(化粧品と小間物問屋)

大正14年、マルカ醤油(現ヨーコー醤油)のお得意様招待旅行風景(現在の宮田町バス停留所付近)写真梯正和様

大正時代の浜田座  演芸場を借り切っての宴会風景(浜田町)

大正時代の大黒屋呉服(大坪衣類店)の記念大売り出し風景(島の瀬交番付)

大正9年、創立当時の西肥自動車本社(相生町現在のNTTの隣)

活動写真館として連日盛況だった朝日館

服部海軍中佐と4人の水兵の銅像

佐世保海兵団 明治22年開設、海軍の教育練習の場であった

佐世保水交社 仕官の集会 宿泊施設

佐世保要塞司令部 明治33年開設、佐世保防衛を任務とする
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