2008年2月16日
九州歴史資料館
第40次水城跡現地説明会
発掘現場土塁(掘型)側から左に西門(水城駅)への水城土塁
第40次調査発掘場所を西門(水城駅裏側)望む 右に水城土塁前方左に土塁掘型を発見
水城跡40次調査周辺図
水城跡の復元図
西日本新聞紹介
記事(2008/2/15)
平成20年(2008)2月16日(土) |
2、外濠の調査で検出された遺構
@土塁基底部際で検出された「溝状遺構」
土塁基底部際で土塁に並行する「溝状遺構」を確認 この「溝状遺構」は幅約9m、深さ約0.8m 第5並びに1トレンチで検出
8世紀以降の土器や瓦片および木杭列など出土。
A土塁基底部から北側約20mの地点で「溝状遺構」
土塁基底部から博多側へ20mの地点で、緩やかに下がる幅10m以上、深さ0.9mの「溝状遺構」を検出 「溝状遺構」内
には、流水や滞水を示す粘土層や砂層が堆積し、上層部から8世紀頃の土器片が出土。
特別史跡水城跡39次調査現地説明
今回発見された木樋堀型 右土塁で南側直線状に同じ堀型があり、次回延長線上の位置を調査するとの事で木樋跡の発見につながるものと思われる
木樋堀型左側
土塁 |
堀型には敷き粗朶が見つかったとの事 |
1、木樋吐水部で検出された遺構
@木樋を埋設した「堀型」
土塁を挟んだ南側の33次調査で幅約9.2mの木樋を埋設した「掘型」を検出。今回40次でそれと直線でつながる位置で木樋
埋設の「堀型」痕跡を確認される。 又その「堀型」から、敷粗朶を検出。
A木樋の吐水に関係する「溝」
木樋埋設の「堀型」北側に、幅2.2m、深さ0.2m以上の溝が続く。丁度木樋堀型の中軸線上に位置する事から木樋の吐水に
関わる溝と思われる。
水城土塁基底部突端からの左側遺構現地説明の様子
Aトレンチ「溝状遺構」を発見
Bトレンチ「溝状遺構」と木材片を発見
Cトレンチ溝跡
Fトレンチ柱穴(土塁基底部右側)
水城跡39次調査全体図
1,水城とは
日本が663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れて、翌年664年大宰府政庁を守るために築かれた。大宰府周辺にある基肄城等と共に大宰府防衛施設の一つとして築かれた長大な土塁。「日本書紀」に「筑紫に大堤を築きて、水を貯えしむ。名を水城と言う」と記されている。
2、水城の規模
*全長約1.2km
*基底部幅約10m
*土塁の高さ 約10m
*土塁の博多側に幅約60m、深さ約5mの外堀がある
*東西2箇所に門がある
*堤の内側から外側の濠へと導水する長大な木樋がある→現在までに4箇所確認されている
3,今回の調査結果
*土塁基底部が途切れていた部分の掘り下げで基底部一部を確認その土塁が御笠川の方へ伸びていた
*外濠部分では更に一段深くなり、土塁基底部から約36mで落ち込み50m付近で立ち上がる「溝状遺構」が確認された
* この「溝状遺構」に堰を設け水の流れを止めることで、オーバーフローして濠内に水を溜めた可能性が考えられる。
*従来、約60m幅、深さ約5mの濠全体に水を溜めたと考えられていたが、外濠の構造に関して、御笠川の東西で異なる状況が判る。
水城
天智天皇2年(663)、日本は百済王子豊璋を救援する為に白村江に軍を進め、日本、百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦ったが破れ 百済滅亡 そのため大和朝廷が664年大宰府防衛の為に築いた全長1.2km 基底部幅80m 土塁本体20m 高さ10mの長大な土塁 現在巨大な木樋が4箇所確認されている。
今回の調査結果(第40次)
@ 木樋が埋設されたと思われる堀型の痕跡を発見
A 土塁際と土塁から約20mの二つの地点土塁と並行する溝状遺構のを確認
土塁基底部から北側約20mの地点で「溝状遺構」
まとめ
「木樋の吐水部」
現在 木樋本体は確認されておらず、吐水口の構造は現在調査中 木樋を埋設した掘形や その延長線上で溝を検出
これらの痕跡からこの場所が木樋の吐水部と考えられている。
「外濠」
外濠は土塁基底部際で幅約9mの土塁線に並行する「溝状遺構」と 土塁から北側へ約20mの地点で緩やかに博多側に下がる
「溝状遺構」の2条で構成 前回調査で外濠内には複数の溝を確認しており 御笠川から西側の外濠は60m幅の底部の
平らで単純な一つの濠でなく 土塁に並行する幾つもの溝で濠を形成し 水を溜めていたものと思われる。
「溝状遺構」