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SB1455掘立柱建物跡
現地説明会資料(太宰府教育委員会提供
 12月も押し迫って太宰府市から太宰府条坊内遺跡が客館跡だとするビッグニューズ流れる、、、、、、
新聞各紙で「古代の交流膨らむ夢」   「古代の外交探る糸口に」   「古代の朱雀大路沿い政庁と一直線」
「東アジア外交解明の糸口」  「鴻艫館と役割分担か」  「奈良平安海外の使節団宿泊」等々一面を飾った。
23/12/24西鉄操車場発掘現場にて現地説明会催される。


此処西鉄操車場は第277次調査として平成21年11月頃現地説明を一度受けた事があり、既に佐波里匙、木簡等出土していたものの当時ハッキリ此処が客館跡との位置づけは無く今回初めて正式の発表となった様だ。
その時のまとめとして下記の様な発表がなされた。

「大宰府条坊跡第277次調査地は、奈良時代にはメインストリートである朱雀大路の東側に面している一等地。佐波里製品は国内での出土例の少ない出土品である。
又もう一つ注目されることは南東で同じ時期の南北に長い大型の掘っ立て柱建物が2棟見つかっていること。今回の佐波里製品とそれら大型建物との関係はまだ判らないが、当時この辺りが重要な場所であったことは想像される。その頃大宰府には新羅からの使いが度々訪れていたことが文献で残されている。2点の佐波里製品がどの様にもたらされたのか、何故此処にあったのか等興味深い。 今後の調査に期待がかかる。」
 

内容 

 1、現地  西鉄操車場跡地(太宰府市朱雀2.3丁目) 平成17年度から埋蔵文化財発掘調査をして来た
 2、「太宰府条坊」の区画検出   (続日本紀)神護景雲3(769)10月甲辰の条に「天下之一都会也」と称される程の     都会で以前より南北22条、東西24坊規模が推定されながらハッキリしなかった条坊が今回検出された。
 3 出土品、建物跡等   奈良時代の「大型建物群」 新羅製金属食器の「佐波里」 労役の帳簿「木簡」 平安時代     の太宰府官人の腰帯「白玉帯」の玉製品等から此処が奈良時代かなり特殊な場所で政庁建物に匹敵する位      の大型建物あとで普通の役所、住居跡とは考えらない、東北多賀城城下の検出遺構との比較で、外国使節を     安置した「客館」ではなかったかとのこと。







太宰府政庁跡から約南へ約1km、政庁から伸びる古代のメインストリート朱雀大路の直ぐ東側に広がる場所に
 
左郭2坊路 14,15条一帯から建物跡、佐波里、木簡等出土
 

西鉄操車場発掘現場全体図

今回の出土品の数々


大型建物の柱

8世紀頃の新羅土器
蓋、そして壺等の胴部破片

8世紀末〜9世紀 青磁壺?
井戸の中から出土

8〜9世紀皿 
中国浙江省で作られた「青磁」で泌色とも言われた、椀、香炉、合子等も出土 只この様な完成品は初めて             

8世紀末〜9世紀 香炉と蓋
(越州窯系青磁)脚部に透かしの入ったもので、入ってないものが多賀城国守館跡から出土

8世紀末頃漆器皿
内面は朱色外は黒朱は水銀朱、黒色は油煙を使用しかつ数回塗りの優品、延喜式には太宰府が朝廷に進める年料に六寸の朱漆盤がありこのタイプ、尚太宰府出土の漆器では最古のもの

平安時代の佐波里の椀
口縁の破片、やや肥厚させた口縁に特徴あり、このタイプは平安時代前期遺跡から出土している

奈良時代の佐波里の加盤?
口縁から体部の破片、器壁は0.7mmで大きな玉縁を持つ、X線撮影で合計三枚の薄板が重なってる事を確認、入れ子に重ね収納する食膳セット(加盤)

奈良時代の佐波里の椀か
底の破片、佐波里の特徴である0.5mm前後の薄さを造る為に挽いた回転の痕跡がある、皿の底が比較的厚いところから椀ではないかと思われる、左も素材の成分分析の結果佐波里と判明

奈良時代の佐波里の匙
聖武天皇の宝物が伝えられている東大寺正倉院(宮内庁所管)に同じ物が有る事が判明、もともと長さ24〜26cm匙面が6〜7cmあったものと思われる       

古代の銅製容器
容器の口縁で花弁の様に曲げて加工している様にも見える    

奈良時代の奈良三彩の火舎
脚がついた火舎香炉の皿の一部分、外面に緑、茶の二色が見え黄色と三色あったと思われる  

奈良時代の奈良三彩と右は古代のサイコロ        
大型壺の一部、外面は緑と黄の二色で二彩?鹿の子まだらの二彩壺は観世音寺から出土している、右はサイコロ様の土製品  

左は古代の水晶製玉石 右は古代の縞めのう         
玉石は碁やおはじきに使われたと思われこの地ではよく出土しており客館との関係が有ったか? 右めのうは奈良時代は水晶と共火打ち石として唐に輸出、火打ち石として持ちこまれたかも?   

奈良時代の白玉帯
帯に装着した石飾りで半円形の
「丸鞆」と四角形の「巡方」で丸鞆の裏の穴には装着の為の銀線が残っている、平安時代は五位以上(貴族)は金銀装腰帯、三位以上(公卿)は白玉帯と規定されており銀使用が白玉帯の決め手となった                
大宰府条坊跡客館 発掘現地説明  
平成23年(2011)12月24日(土)
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