増長天南城門
(大野城跡第48次調査)


土塁が切通されている林道の下で、石組、石敷を確認
石敷の下では、門柱と見られる2つの穴を確認
門は土塁を掘り込み造られている事が判った
城門は2時期に亘り造られていた

城門について

城門の床は石敷きで、城内側には石の階段が設けれれていた。石敷きについては、長さ6.45m以上、幅4.3m程度と推定。城門外側に向って傾斜、石は表面が平坦なものが使用されている。特に城門外側に近いものは石畳の様なもので見事なもの。これらの石畳の下にはさらに別の石畳がある様。これは古い石畳の可能性あり。
石敷き下の柱穴2基は城門門柱と見られる。
石敷きの後ろ(城内側)は階段になっている。内側の階段は九州古代の山城では初めての発見で長さ約3.4mで高さ1.5mの高さを上るため10段設けられている。
階段の上には特に目立った遺構はなく、土塁の下場もこの付近までとなっている。
ここまでが城門の範囲とするとその規模は長さ9.85m前後幅4.3m、高さ2m程度となる。
(崩落地点<土塁外側>から見える、石垣・石敷き)
土塁が切り通されている林道の下で、石組・石敷きを確認。何れもこの山で
取れる花崗岩を使っている。又石敷き下では、門柱と見られる2つの穴を確認、門は、土塁を掘り込んで造られている。
(崩落地点<土塁外側>から見える、門柱)
平成15年7月時間当たり100mmを越す豪雨で大野城跡も大きな被害を蒙り、復旧事業が行われる事前調査として土塁、豪雨で見つかった
石の構造物(城門)の現状把握をする為の発掘調査が行われその現地説明がされた。

調査地点
 大野城跡南側は内外二重に土塁が巡らされている。外周土塁に沿った大石垣の東側に、通称(馬責)と呼ばれる東西に細長い平坦地が、土塁内側に沿って広がりこの平坦地東側の土塁が大宰府城門に向って北東へ方向を変える付近になっている。
この谷を下った処に中世山城岩屋城の本丸があり、増長天地区群から南へ直線距離で150m、大宰府口城門からほぼ南西210mで、標高320m、観世音寺より北へ約1.5mの地点。

  大野城跡増長天南城門
(大野城跡第48次調査)の発掘調査
現地説明会
     平成19年3月17日
観世音口城門周辺図
大野城北石垣城門現地説明会 平成19年3月17日
土塁前面の柱穴列

土塁前面には柱穴列が確認 何れも、土塁に平行している。土塁基礎部前面にもたれかかった土に切り込んでおり、埋土も黄色味を
帯び、あたらしい時期の城門の埋土に似ていることから、新しい城門がつくられた際の遺構らしい。
増長天城門現地説明の様子

増長天口城門の場所  

林道口より左へ 
北石垣城門跡からの平瓦10点程、(全て破片)又軸受け金具の他、城門の飾り鋲、小型の釘等出土
瓦が出土したことはこの門のどこかで使われていたこと。大野城で出土するものの中でも比較的古い
ものが多く、この城門が築城当時のものである可能性があるとのこと。

07/3/9付西日本新聞掲載
大野城跡で現在7ヶ所の城門見つかっている。

1、原地区城門      2、大宰府口城門      3、坂本口城門      4、水城口城門     5、百間石垣
6、北石垣地区城門    7、増長天地区城門


増長天礎石群から下り

馬責めへ その左側に城門
大野城で7個目の城門となり北石垣口城門と呼ばれることになった。城門は幅4.6mの幅で東西から連なる土塁を掘り抜き、そこに土止めとなる石垣を築いて作られている。右側城門になり手前城門の前面は高さ1.5m程の崖になっており、この崖の部分に小規模な石垣を築いている。この為、城外から門に入る為にはこの崖を乗り越えなばならず、木製等の階段を置き、敵が攻めて来た時にはこの階段を外せば、段差が其の侭防御施設になる仕組み。これを「懸門」
北石垣城門から博多湾が一望出来て敵襲来をいち早く察知することが出来る場所となっており恐らく襲来に備える為の見張りどころでもあったのか!!今でも博多湾を遠望できる絶景の場所

地説明に駆けつけた皆さん 出発前
A区石垣 急斜面に築かれていた石垣で高さ4m、幅18m弱の石垣が聳えていた 石垣の下は高さ2m程の人工的な盛り土が見つかりそれを土台に築かれ二段式の構造 古代山城では始めてらしい
城門につながる石垣で右側には門柱穴が見れる

城門門柱穴跡

門の建物を支える主柱は東西それぞれの石垣の北側隅部に一つずつ4個が確認されている

東側の軸受穴に、鉄製の軸受金具がはまった状態で発見、高さ15cm程この角柱部が軸受穴にあり直径10cmの正円筒形、頂部は球状

大野城跡で扉金具出土

平成19317日 大野城四王寺の大野城跡で7ヶ所目の城門跡が見つかり、その遺構から国内の山城では始めて門扉の軸受け金具が発見され出土したことで県教育委員会メンバーによる現地説明会が行われた。  この金具は朝鮮山城跡でみつかった物とほぼ同じ形で、築城技術伝来の様子などを探る
貴重な発見。 石垣や土塁など土木分野のみでなく、門の構造の細かい点まで朝鮮半島の技術導入が確認された点で意義深いとの事であった。

1
、大野城跡とは

@大野城の作られた時代
   
  大野城跡は、1350年程前に作られた古代山城。 7世紀中頃の朝鮮半島は、北に高句麗、東に新羅があり激しく争っていたが、新羅が唐と連合して660年に百済に出兵し、滅亡させた。
残された百済の遺臣達は、国を再興しようと倭(大和政権)に援軍を要請。 そこで中大兄皇子(後の天智天皇)が百済救済のため半島に計47千人の兵を送る。然し663年、白村江の戦い最後の大激戦で倭と百済連合軍は大敗し、百済は完全に滅亡してしまう。
百済の次に日本列島が侵略される事を恐れた大和政権は、北部九州〜瀬戸内各所に山城を作る。日本書紀には此の時に作られた城7箇所が記載され、此の中の一つが大野城。
大野城は、やはり日本書紀の7城のひとつである佐賀県基い城と共に、当時の朝廷の役所である「大宰府」と深い関係を持っている。大宰府の南側には基い城が、東側には水城が、北側には大野城があって、ちょうど大宰府政庁を取り囲むような形で当時の防衛施設が配置されている。
このことから、大野城は当時の貿易・対外交渉・九州の防衛を司る重要な役所であった大宰府政庁を守るための拠点の役割を持っていたと考え
られる。

A大野城の構造

  大野城などの築城に当たっては、百済からの亡命貴族がその指揮を取った事が日本書紀に記されている。当時の日本には本格的な築城技術
や知識がなく、渡来人に頼らざるを得なかった。大野城他史書に記載された7城は、朝鮮半島の同時期の山城に共通する特徴があり、これらを
「朝鮮山城」と呼んでいる。大野城の第一の特徴は、長大な城壁ライン。四王寺山の峰上を、一周6.8kmの城壁が囲み城壁の大部分は土で出来
ている。(土塁)谷の部分は水に流される為石垣で作る(石塁、大石垣、百間石垣、小石垣、水の手石垣、北石垣)。水が流れる谷等は城内側から城外側への排水の為の暗渠を城壁の下に造り水を処理しているところもある(屯水)。又排水暗渠がない場合も石垣の最下部の隙間を開けるようにして石を積み上げ、その隙間から水を流す工夫をした石垣もある(百間石垣、大石垣、水の手石垣)。
城壁を越えて城内に入る為に、城門がいる。城門は城壁を断ち割る様に作られ、扉や門の建物が乗る礎石が残っている。(大宰府口城門、水城口城門、坂も野口城門、小石垣城門、宇美口城門、原口城門)。
城壁で囲まれた城内には建物跡が見つかっている。大部分が規模が統一された規格性の高い礎石建物で、殆どが米倉や武器倉といった倉庫と推定されている。
城内で既に発見された建物跡は70棟以上(尾花礎石群、増長天礎石群、猫坂礎石群、八並礎石群、村上礎石群、主城原礎石群など)。


B北石垣城門発見

   平成15年7月19日100mmを越える大雨が大宰府地域を襲う、四王寺山では400箇所を越える土砂崩れ等で約30箇所での大きな被害を受けた。今回その復旧作業の為の下調査の過程で今まで判明していなかった北石垣の様子が判って来た様。大野城で二例目になる石組みの暗渠が発見されたがその暗渠のある最奥部から斜面を上がったところに城門があらたに発見され大野城では7個目の城門でこれを北石垣城門と名づけられた。

C城門から軸受け金具

   城門から一対で発見された礎石のうち、東側の礎石の軸摺り穴にはまった状態で出土。礎石には方形の方立穴、半円形の主柱穴のくり込みの他に、一辺がおよそ12cm程の正方形、深さ15cmほどの軸摺り穴が掘り込まれ、この方形の穴に、ほぼ同大の軸受け金具の下部がはまり、礎石にさび付き動かない状態でみつかってる。  国内の古代山城では同様の部品が出土した例が無く、大野城出土例が始めて。韓国では現在までに5遺跡6例の出土が報告されている。その他北朝鮮中国どの出土例はあるがまだ数えるほどの例。日本での呼称がまだ決まっていない為に暫定的に「軸受金具」とよんでいる。   

大野城跡第45次調査
(北石垣地区)の発掘
平成19317日現地説明会が(大宰府市教育委員会文化財課)より行われた
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