大宰府史跡めぐり
大宰府駅
大宰府線の始まりは馬車鉄道で明治35年(1902年)大宰府天満宮千年祭が行われた時、福岡、久留米方面からの参拝者を輸送する為、現在のJR二日市駅からこの宮前まで、延長約kmのレールを敷いて、16人乗りの客車を馬車が引いて走ったを言う。大正2年(1913)に蒸気機関車に切り替え、昭和2年(1927)に現在の電車になった。
和歌燈篭
大宰府駅前には和歌と俳句を4側面に刻んだ燈篭が建つ

 1、東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて
                春なわすれそ   菅原道真 

 2、烟り立つかまどの山の 緋桜は 香飯の国の
                贈る春風      仙  崖

 3、反橋の小さく見ゆる芙蓉かな       夏目漱石

  4、今もかも大城の山にほととぎす鳴きとよならむ
                            大伴坂上郎女
水時計
水時計(漏水壷)
大宰府政庁では、東の丘に水時計を置いて時刻を知らせたと伝えられている。模型の図の様な仕掛けで水が上から流れてくると、満水壷の矢がすこしずつ上がり矢の目盛りで時刻が判る。時は太鼓で、刻は鐘で人々に知らせたと言う。

水時計仕組み
漏水壷の仕組み  一番上の壷天原壷→夜天地→日天地→平壷大海→万水壷へ落ち矢が上下する。
旧参道
江戸時代に起源を持つ「町屋」と呼ばれる景観が残り、西側参道には日田屋、大和屋、大野屋、泉屋、松屋等旅宿建物も其の侭に残っている。参道では電柱や電線を地下に通して景観をよくしている。
歩道のせん
参道の歩道には(せん)を敷き詰めてある。(せん)の模様は学校院跡から発掘された写しで、現物は重要文化財に指定されて太宰府天満宮に保管されている。


大宰府天満宮由緒

境内の入り口に立つ自然石に大宰府天満宮と彫ってある。明治以降大宰府神社と称していたが昭和22年2月大宰府天満宮に改称したもの。
   ご祭神 菅原道真公
   鎮座     延喜3年(903)2月25日
官公は承和12年(845)6月25日京都でご誕生。幼時より学問に優れて若くして文章博士(33歳)となるなど政治や学門に手腕を発揮したので、宇多天皇のご信任厚く醍醐天皇の時右大臣に昇進(55歳)した。当時は藤原氏全盛の時代であった為藤原氏以外から右大臣になる事は異例の事であった。
その為か左大臣藤原時平の讒言にあってだ太宰権帥として大宰府に流され、南館に謫居すること2年、約1100年前の延喜3年(903)2月25日、59歳の一生を終えられた。亡骸は現在の本殿の地に葬り、菅聖廟・安楽寺天満宮と称してお祀りされた。誠道守護・学業成就・徐災招福などの信仰厚く、全国天満宮の総本社とも仰がれている。
天満宮の主な行事
 1/7うそがえ神事と鬼すべ    2/25梅花祭(飛梅講社大祭)
 3月第1日曜日 曲水の宴    4/20更衣祭
 7月24〜25日夏祭・千灯明   9/21〜25日神幸式・千灯明
 11/20更衣祭 
かおり風景
樟の大木

かおり風景百選

歌碑 菅原道真公
天神の森と「かおり風景百選」天満宮の境内には樟の木が多い。特に樟の木には境内にある大木51本をまとめて、「天神の森」として福岡県の天然記念物に指定されており、特に大きいものの2本は、国の天然記念物に指定されている。又、梅の木は約200種類、6000本植えられており、大宰府天満宮の梅林とクスノキの森は「かおり風景百選」に選ばれている。 歌碑 菅原道真公
「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなし      とて 春なわすれそ」
昌泰4年(901)に太宰権帥を命じられた菅原道真公が京都を出発される際、紅葉殿の梅に惜別の想いをこめて詠じられたもので、公を慕って一夜のうちに京より太宰府まで飛来したと言われる御神木「飛梅」(ご本殿に向って右)の由来として有名であ

七卿西窮記念碑

延寿王院正門
左は七卿西窮記念碑 七卿が朝廷を追われて長州に落ちてゆく時の苦しい状況を銅版に描いたもの
右は正門 天保5年(1834)棟上された。門の構えや各部の彫刻等大変優れた建造物で官公1100年祭で補修された。又横の筋塀は昔は皇室・公家の邸に造られたもので、五本筋は格式の高さを示す。


五本筋塀

五卿記念碑

九州最古の石鳥居 説明文
石鳥居(県指定文化財) この石鳥居は、今からおよそ700年前、南北朝時代に建立されたと推定され、九州では最古と云われている。筑後の国有坂城主 新田大炊介(おおいのすけ)寄進と記されている。

延寿王院正門前のご神牛
官公とご神牛   延寿王院

官公のご誕生は承和12年(845)6月25日でこの年は(乙丑)であった。このことから官公の生涯は牛に縁が深い。官公のご遺骸はご遺言により牛の車に乗せて現在の本殿の地に葬った。又門人の味酒安行がお墓の上に初めて神廟を建立したのが、延喜5年(905)丑年(乙丑)であった。その他牛乗り天神の伝承やその人形も作られている。延寿王院の御神牛は大宰府の彫刻家富永朝堂が特に昭和60年(乙丑)に制作したもの。


今王社
今王社は昔は参道の中程にあって、大宰府の長官や藩主の代参者が、参詣の途中で穢れに会うと、境内まで参入せず、この今王社に幣帛を納めたもので、日勅の宮とも云った。

志賀社
「重要文化財指定で 祭神綿津見三柱神を祀り、海上安全守護の信仰があります。長禄2年(1458)再興 壱間社 入母屋造り 和・唐・天竺の三様式をもって構成され、全国屈指の精巧細緻なる重要建造物である」社が池の中にあるので、550年の間火災に合わず、境内の中では最古の建物である。
延寿王院

「延寿王院 安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜った。慶応元年(1865)から約3年間朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷派の五卿がこの延寿王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本竜馬ら大勢の勤皇の志士達が去来して明治維新の策源地となった。」現在は西高辻宮司邸である。
1、大宰府天満宮周辺(1)
心字池と太鼓橋 
この神池は「心」という字をかたどったものであり、太鼓橋と平橋の三つの神橋は、仏教思想に言う過去・現在・未来の三世一念の相を現したものである。
この池を渡る事によって「三世の邪念を祓う」ともいわれ、参拝者の身を清める橋と云われている。
一千年祭の記念灯籠
 東京歌舞伎座俳優の灯籠を東京大相撲協会の灯籠は、明治35年(1902)御神忌一千年祭が行われた時、共に奉納されたもの。歌舞伎は「菅原伝授手習鑑」など官公と縁が深い。大相撲では官公の先祖野見宿祢が相撲の神様といわれて、北神苑には野見宿祢公顕彰碑がある。また境内入り口の梅園には歌舞伎俳優らが献納した梅の木もある。

黒田長政公の灯籠

黒田忠之公灯籠
境内入って両側に一対の灯籠 これは筑前初代藩主黒田長政公が奉納したもの。本殿に向って右側即ちこの灯籠が指定文化財の石灯籠である。 その竿の銘には慶長13戌申(1608)8月吉日願主大檀那黒田筑前守豊臣長政とある。
黒田長政は父如水と共に天満宮を篤く敬い、戦火で焼けた社殿やお堂などを再建したり経済的な援助を惜しまなかったと言う。
楼門前の両側に並んでる10基の灯籠は、福岡藩2代目藩主黒田忠之が、寛永2年(1625乙丑)に寄進したもの。
絵馬堂と奥村玉蘭
 絵馬堂は文化10年(1813)に建立された。絵馬とは神事奉納に代わるものとして絵に描いた馬のことを言うが、今は額に描いて奉納された絵や文字もある。絵馬の歴史は古く奈良時代の遺跡から馬の板絵が発見されている。
 絵馬堂の建立を発願した人は、博多の商人奥村玉蘭といい、若くして学門を好み絵画を習い、博多を代表する文化人の一人であった。文政11年(1828)68歳で没した。著作には「筑前名所図会」10巻が有名である。現在も玉蘭筆の「西都奇観および孔雀図額」が掲出されている。

曲水の宴
奥村玉蘭の西都奇観、孔雀図額
本殿(重要文化財指定)
  菅原道真公は藤原時平の讒言にあって九州に流され、2年後の延喜3年(903)2月25日配所の南館で亡くなったので、門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)がこの地に葬った。 その後延喜5年お墓の上に祠を建てたのが太宰府天満宮の始まりである。ついで左大臣藤原仲平が醍醐天皇の勅命により、延喜19年(919)大宰府に社殿を建立し盛大にお祭りをした。
 現在の本殿は筑前国主となった小早川隆景が天正19年(1591)約410年前に築造したもの。構造は五間社流造りで、棟が高く桧皮葺き(ひわだぶき)の屋根は流れる様に美しい曲線を見せ、豪華壮麗な桃山時代の代表的な建造物として、国の重要文化財に指定されている。
この本殿の装飾は、他の神社より華やかな色彩である。昔、天満宮安楽寺とか菅聖廟と呼ばれていた名残りと云われる。神殿内の丸い柱は金色燦然としており、金色の柱の奥が内陣であって、その真下に道真公のお墓がある。
御神木飛梅
 道真公は都をおたちのとき庭前の梅に別れを惜しまれて
           「東風吹かば にほいおこせよ梅の花
                         あるじなしとて春な忘れそ」
と詠まれました。この梅が天神様の後を慕い、一夜のうちに飛来したと言う有名な
「飛梅」です。このご神木の梅の実で作製した「飛梅御守」は一代守として古来より深く信仰されています。毎年この飛梅がいち早く花を開いて、道真公をお慰めしている。 



 橘は常世の国の果実として尊ばれ、古くから神前に植えられていた様で、戦国末期の境内図に「代々木」と記されている。代々木は「だいだい」に通じるとの思いであろう。紫宸殿を模して造られた本殿には、宮廷の左近の桜、右近の桜にならって、左方に飛び梅、右方に橘を配したと伝えられる。

句碑 河野静雲
句碑 河野 静雲
    魁(さきが)けて 雪の飛び梅 はつあかり
 この句碑は昭和42年、静雲82歳の時に建てられた。博多の人。仏門にありながら高浜虚子の門下生として有名。政庁東側の月山の麓に仏心寺を建てて俳句の指導にあたった。寺の境内には虚子の帯塚や静雲の筆塚のはか虚子一門の句碑がある。

句碑 松尾 芭蕉
句碑 松尾 芭蕉
     梅が香に のっと日の出る 山路かな
菓祖 中島神社

 昭和29年兵庫県からお菓子の神様中島大神を勧請した。ご祭神は田道間守(たじまもり)といい、11代垂仁天皇の勅命で、常世(とこよ)の国から非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰ったという伝説があるが、それは橘の実の事であった。昔は、お菓子といえば果実に限られていたが、平安の頃、唐の国から穀物の粉で作る菓子が伝わったと言う。

相輪塔(そうりんとう)
相輪塔(そうりんとう)
 輪仏教の塔(五重塔)の新形式で伝教大師によって伝えられたという。仏塔の頂部を独立させたもので、神社にあるのは神仏習合時代の名残りである。
包丁塚
 この塚は、調理技術者の使い古した包丁を納め、長くその功徳に感謝すると共に調理した鳥獣魚菜の霊を慰め、業界の繁栄と包丁の余沢にあずかる万民の福祉を祈念して、例年包丁式を行う、、、、
野見宿祢公碑と筆塚
 野見宿祢は菅原道真公の祖先にあたり、我が国における相撲の祖神とされる。前の石は力石。
 菅公は、書道三聖と崇められ、書道の神として信仰された。筆塚は使い終えた自分の筆に感謝して納める場所で、七夕揮毫会の表彰式の日、筆塚祭が斉行される。
参考 書道の三聖とは、空海、菅原道真、小野道風を言う。
誠心館
 斎館と結婚式場とになっている。斎館はお祭りに神官が斎戒沐浴(さいかいもくよく)して身を清める場所である。

夫婦樟
夫婦樟
 樟は筑紫路を代表する樹木で、太古の昔より自生し、天神ノ森を形成している。その中でも特に大樟と言われるこの夫婦樟と他(右)の一本とは、大正13年国の天然記念物に指定されいる。樹齢は1000年から1500年と推定されている。
大樟(国指定天然記念物)
 天神の森のうち代表的な巨樹で、樹齢1000年以上と言われている。 
楓社
楓社 菅原道真公夫人
道真公の夫人宜来子(のぶきこ)を祀る。昌泰4年(901-7月延喜に改元)1月道真公が九州に流されてからは、夫人は夫や隈麿、紅姫の身を思わぬ日はなかった。菅公も夫人の便りを待ち望んでいたが、3ヶ月振りに届いた便りは「西門の樹は人が持ち去り、北の園は他人に貸しています。生姜を包んだ紙には薬種と上書きして、昆布を詰めた竹には精進用と書いてある。さぞや妻子は苦しい生活であろうにそれは云わない。それが返って私を案じさせる」との詩が残されている。
延喜2年(902)12月夫人は病死した。その知らせを受けた菅公は大変悲しみ、その為死を早めたのか3ヶ月後の延喜3年(903)2月25日に南館で59歳の生涯を閉じた。
詩碑  徳富蘇峰
詩碑  徳富蘇峰
徳富猪一郎は(蘇峰)は、熊本県に生まれ、27歳で「国民新聞」に刊行した思想家であり歴史家である。菅家の子孫といい、菅原正敬と署名している。この詩は道真公のご生涯とその精神を讃えたもので、92歳の書である。文豪徳富蘆花は弟。
儒門出大器 じゅもんたいきを出だし 抜擢躋台司 ばってきさられてだいしにのぼる 感激恩遇厚 おんぐうのあつきにかんげきして 不顧身安危 みのあんきをかえりみず 一朝罹纔構 いっちょうざんこうにかえり  呑寃謫西涯 えんをのんでさいがいにたくせらる 傷時仰蒼碧 ときをいたんではそうへきをあおぎ 愛君向日葵 きみをあいすることこうじつき 祠堂遍天下 しどうてんかにあまねく 純忠百世師 じゅんちゅうひゃくせいのしたり
麒麟
麒麟
 麒麟は中国の瑞獣(ずいじゅう)思想上の動物で聖人が現れて王道が行われる時に出現すると伝えられ、菅公の御聖徳を讃えたものと云える。
和魂漢才碑
 漢学に精通しつつも、日本精神を失わない様にこの四文字が菅公の学識と教学を適切に言い表した言葉で、明治維新の後、これを替えて和魂洋才と言う言葉も生まれた。この碑は、安政5年(1858)菅原為定の書で、西高辻信全を中心に、平田鉄胤ほか多くの学者や志士達によって建碑された
手水舎
手水舎(てみずや)
 手水鉢は、霊峰宝満山山腹より切り出された一枚岩で、我が国では類例を見ない大きさである。中央に刻まれた神亀は、延齢招福を意味している。この手水舎は昭和9年(1934)の建立で、博多の豪商、石田清氏の奉納。
手水舎の神亀
手水舎(てみずや)の神亀
 中央に刻まれた神亀は、延齢招福を意味している。
宝物殿
 平成4年(1992)御本殿再建400年祭に合わせて新しい宝物殿が完成した。一階は天満宮の始まりを説明する映像室と宝物の展示室。2階は宝物収蔵庫。地下は宝物の保存管理と調査研究する文化研究所。 宝物の中には国宝の翰苑という書物や、道真公が腰につけたと言われる太刀、天満宮縁起等重要文化財を含め数多くの宝物が保管されている。現在太宰府市にある国宝は観世音寺の梵鐘と、天満宮の翰苑との2件のみという大変貴重なもの。 
御神牛
御神牛
 菅公とご縁の深い牛は境内の所々にあるが、この神牛像は県の文化財に指定されている。菅公は延喜3年(903)2月25日にお亡くなりになりましたが、ご遺言に「遺骸を牛車に乗せて人に引かせず、牛の赴くところに留めよ」と仰せられ、その牛が動かなくなったところを御墓所と定めました。それが現在の御本殿の地です。この神牛像は文化2年(1805)乙丑の年に奉納された。ご自分の身体と同じ神牛の部分を祈念をこめてお互いに撫でさすれは身体健全はもとより病気全快するとの信仰があります。
うそ像 
 鷽は、1月7日、一年中の嘘を天神様の誠心と取替えて頂く鷽替え神事ゆかりの鳥で、幸運を運ぶ天満宮の守り鳥でもある。嘉永5年(1852)に奉納されたもの。「鷽替え」は、「鬼すべ」に先立ち夕刻より楼門前広場にて始まる。木製の鷽を持った参詣者が「替えましょう、替えましょう」と呼びながら、神官の持つ金の鷽を求めて替えあうもの。一年の嘘を天神様の誠に替えて今年一年の幸せを願う神事。
安行社
 味酒安行の霊を祀る。安行は菅公の門弟で南館ではお側に奉仕したが、菅公の御遺骸を牛車に乗せて本殿の地に葬り、お墓の上に祠を建ててお祀りした。今日の太宰府天満宮の基礎をなした功労者である。
現在も子孫の方が味酒(みさけ)の姓で天満宮に奉仕している。 
福部社 老松社 御子社
摂社と末社
 天満宮の境内には本殿の他にも多くの小社がある。祭神が道真公とご縁が深い社を摂社といい、その他の社を末社と言う。本殿背後(左写真)の6社は摂社で、西側(左端写真)から福部社(菅公の恩師で菅公夫人宜来子の父、島田忠臣を祀る)左2番目が老松社(官公の父君菅原是善と母君を祀る)左3番目四社は御子社で官公が大宰府に流された時既に成人していた四人の子息も夫々左遷された。長男高視(たかみ)土佐介(高知県)、次男 景行(かげつら)駿河権介(静岡)、三男 兼茂(かねしげ)飛騨権
掾(岐阜県)  四男 敦茂(あつしげ)播磨(兵庫県)
 本殿東側には、摂社・末社合わせて10数社の小社がお祀りされている。

北神苑 全国の梅の種類薬00種をいわれているがその内大宰府天満宮には約200種6000本あるという。昔から、初老・還暦祝いなどに献梅する習慣があるので多くなった。初夏のころ神苑では「梅ちぎり」の行事が行われる。烏帽子に狩衣姿の神職と巫女さん達が竹竿を使って収穫する。梅の実は御神酒や梅干に加工される。
1、大宰府天満宮周辺(1) 1、大宰府天満宮周辺(2) 2, 祭りと行事
3,観世音寺と戒壇寺 4、五条周辺・崇福寺 5、太宰府政庁〜ふれあい館
   
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