大宰府史跡めぐり
神馬 白梅号
神馬 白梅号

  神馬とは神の乗用に供される馬の事で、秋の神幸式には古来より御幣を背に供奉する。約500年前の明応年間に描かれた境内古図には、この場所に「神厩 (おんうまや)の名称が見える」
句碑 富安 風生
   紅梅に たちて美し 人の老   風生
この句は、師高浜虚子の古希賀宴に望み師を讃えて
詠んだ一句。風生先生は大正7年に福岡貯金支局長として赴任し、この地で俳句の道に入った。いわば福岡が風生俳句発祥の地である。この神苑にも幾たびか足を運び、又紅梅にも縁があるところからこれらを記念して句碑が建立された。風生は逓信次官、電波監理委員長の要職を経て芸術院会員に推された。昭和3年から俳誌「若葉」を主宰し数多の子弟を育み、伝統俳句の中道を鼓吹して今日に至っている。昭和54年2月22日没 享年93歳なお碑石は福岡県糸島郡志摩町野北の青石である。
  
お石茶屋 吉井勇の碑 宝満山参拝墜道
歌碑 吉井勇とお石茶屋
      
    大宰府のお石の茶屋に餅食えば 旅の愁いもいつか忘れむ  勇
  大正から昭和にかけてお石茶屋の女主人公お意石さんは、美貌と気風の
    良さで「宰府のお石シャン」と呼ばれて大変な評判であったと言う。
  お石茶屋の裏手にある赤レンガ造りのトンネルは、宝満宮参拝墜道といい、
    昭和3年(1928)炭鉱主麻生太吉が寄進したものである。

吉嗣拝山顕彰碑
石碑   吉嗣 拝山(よしつぐはいざん)顕彰碑

 吉嗣拝山は弘化3年(1846)大宰府で生まれ、日田の咸宜園
(かんぎえん)に学び、詩文、書、画の三道に優れていた。 26歳の時事故に遭って右手を切断。以後片腕の南画家として有名であった。大正4年(1915)70歳で没した。碑面の「三絶流芳の碑」 がそれを讃えている。

だざいふえん
だざいふえん

 昭和32年(1957)開業の遊園地。8000坪の敷地に
、子供汽車を始めウエーブコースター等20数種の遊戯施設
 があり、レストランや休憩所もあって若い人や家族連れ
 にも楽しめるところ
万葉歌碑 大伴旅人
  わが苑に梅の花散る 久方の天より雪の流れくるかも  (万葉集巻5)天平2年(730)正月13日太宰師大伴旅人は、官邸に大宰府の官人や九州の役人達31名を招いて「梅花の宴」を催し、中国渡来の珍貴な花であった梅をテーマに和歌を詠んだ。この歌は宴の主人旅人の歌である。「梅花の宴」に詠まれた歌32首は、万葉集巻五に連記されている。
大伴旅人を始め山上憶良、大伴百代、小野老、沙弥満誓、大伴坂上郎女などの人々を、近年「筑紫歌檀」と呼ばれるほど、万葉集の中でも一際精彩をはなっていた。
鬼すべ堂
「鬼すべ神事」は毎年1月7日の夜、鷽かえ神事の後行われる勇壮な火祭りで、起源は古く寛和2年(986)太宰大弐菅原輔正が始めたもので、1000年の伝統がある。追難祭とも云われ、悪魔を祓い、幸福を招く意味である。夜9時頃鬼すべ堂に入った鬼を煙でくすべる「すべ手」と、これに対する鬼警護など総勢300人が入り乱れて、夜空を焦がす炎を煙、板壁を打ち破る乱打の響き、その中を鬼の一団が堂内を7回半巡り、ついで堂の外を3回巡って漸く喧騒も静まり幕を閉じる。この間約30分の火の祭典であり、日本三大火祭りの一つとも云われている。
左鬼すべ神事は大宰府市画像配布を受けたものである。

曲水の宴 
  
  曲水の宴は平安時代の宮廷行事を再現する行事である。衣冠、十二単(じゅうにひとえ)、小桂(こうちぎ)等に身を包んだ人々が、上流から流された盃が、自分の前を過ぎないうちに和歌をつくり、酒を飲み干すという祭事である。この行事は天満宮では、天徳2年(958)太宰大弐小野好古(よしふる)によって始められたと言う。毎年3月第一日曜日に行われるが観梅とあわせて見物客が多い。

万葉歌碑 筑前介佐氏子首

  よろつよにとしはきふともうめのはな
     たゆることなくさきわたるへし
如水の井戸

 福岡藩主黒田長政の父孝高(如水は法号)は、天満宮
 を深く崇敬して、ここに草庵を建て、二年間隠棲の際
 使用した井戸です。

筑前介佐氏子首

如水の井戸
菖蒲池と句碑
 
 池の菖蒲は、昭和12年(1937)に久留米の人、三橋繁翁が
  植えた。その後も誠意を尽くして管理したので西日本における
 菖蒲の名所となった。
 池の中に年尾の句碑がある。(高浜年尾は高浜虚子の長男)
    紫は水に映らず花菖蒲   年尾 
 
天満宮では2,3月の梅花、5月の樟若葉、6月の花菖蒲が参詣の
 人々を楽しませている。
歌碑 田口白汀(はくちょう)
  
  ひと時の 茜といえと雲を焼く
  大きな自然や限りなき空や   白汀

 この歌は昭和26年宮崎県都井岬での夕焼け
 の風景を詠ったもの
石碑 夢塚
 
 俳聖松尾芭蕉が、大宰府に詣でたいと念じつつ
 ”旅に病んで夢は枯野をかけめぐる”と口ずさん
 で逝いたのを偲び、門人達が天保14年81843)に
 建てたもの
川柳句碑 藤田潔
 
 興亡を語れ 礎石のきりぎりす
定遠館

 定遠館は明治28年(18952月、日清戦争の黄海の海戦で我が国海軍によって沈没し た清国の軍艦「定遠」を、その翌年に引揚 げて定遠の艦材をもって建築された記念館である。土塀の門扉はその船体の鉄板であって、多数の穴は日本軍の砲弾の跡である 
裏庭の軒は船の残骸を其の侭利用されている。
曲水の宴 写真は大宰府市より借用
歌碑庭園「邂逅の苑」
  
 この庭園は、戦後の天満宮の礎を築いた先々代西高辻信稚(のぶわか)
宮司と、先代の信貞宮司、宮司をお助けした小鳥居寛二郎権宮司の三方の
歌碑を中心にして、その功績を偲ぶ庭園であり、又人と人の出会いを大切
にする場所でもある。平成8年落成。
西高辻信稚宮司(第37代)
飛梅の香をなつかしみ立ち寄りて むかししのへは花のさゆらく
小鳥居寛二郎権宮司
御奉仕の日々
心をも身をもつくして仕えなむ まことの道をただ一筋に

西高辻信貞宮司(第38代)
樟の木の光の中で私は佇んでいた 深く淡い光の中で この樟の木は 深く長い命を燃焼させている
幾千年のこの樟の木は 多くの歴史をつぶやきながら、、、
土塀の門扉は船体の鉄板で日本軍
の砲弾の跡が残っている。
浮殿(うきどの)
 水面にその影が映る建物を浮殿と
 いった。
 浮殿は室町時代の境内図にも見え、
 戦前までは心字池の辺りにあった。
 秋の神幸式の御休憩所で、お上りの
 御神輿はここでお休みになり、竹の
 曲の一座が、「御供上げ」の曲を奏
 する。

本尊釈迦如来像
薬師如来像 常楽庵 無準堂
光明寺
 神護山光明禅寺 当山は臨済宗東福寺派に属し鎌倉中期約700年前菅家出生の鉄円心和尚創建の天満宮結縁寺です。
    下段の仏光石庭(前庭)  三、五、七の十五石で光の字い配石された九州唯一の石庭です。
    下段一滴海の庭(裏庭) 青苔は大陸と島、白砂は水と大海を現し、長汀曲浦の見事な線で画出された枯山水の庭です。
   上段左端の本尊は釈迦如来像、恵心僧都の作   二番目薬師如来像で鎌倉時代の作で両手に薬壷を持つ
 
   茶室、常楽庵は総檜造りの鎌倉時代風の造り、材木は金閣寺再建の余材を使ったという。横に茶室一滴庵 京大工の手になる茶席 
  無準堂に三体の中央 渡唐天神、右に仏鑑禅師(無準師範)、左に鉄牛円心和尚が祀られているが現在修復中であった。 

現在の藍染川

梅壷侍従蘇生の碑
藍染川(あいぞめがわ)
 そばを流れる小川には藍染川という美しい名前がついている。
 この川は謡曲「藍染川」の舞台となった。天満宮の神官中務
 頼澄を慕って筑紫に下ってきた京女梅壷は、頼澄に会えない
 悲しみに藍染川に身を投げた。それを知った頼澄が天神様に
 祈ったところ梅壷は生き返ったという話である。
   玉垣に囲まれた中は梅壷侍従蘇生の碑
渡唐(宋)天神と伝衣塔(でんいとう)

 鎌倉時代のこと、大宰府横岳の崇福寺にいた聖一国師の夢枕に菅神(菅原道真公)
 が現れ禅の教えを問うた。そこで国師が宋(中国)の佛鑑禅師を紹介したところ
 菅神は一夜の内に宋に渡り、忽ちに悟りを開いて戻って来られたという。
 これが渡唐(宋)天神の話であるが悟りの証に貰った法衣を聖一国師の弟子の鉄牛
 円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝え
  られる。 
菅原道真略歴表
1、大宰府天満宮周辺(2)
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