鉾の浦 

昔、大宰府中学校の北辺り(五条4丁目)から、銅矛10本が出土したので
鉾の浦と呼ばれた。昭和59年(1984)学校下を発掘したところ中世の梵鐘
鋳造工場が発見された。梵鐘の鋳型、溶解炉など大規模なものであった。
調査の結果この遺跡は14世紀前半のものであると言う。
文献によれば13世紀に大宰府在住の丹治(にいはり)氏が梵鐘を鋳造した
とあり、天満宮六座のうちにも鋳物屋があるので、昔から盛んであったことが
わかる。
大宰府中学校北側から見下ろす場所に鉾の浦があるが
今は既にマンションが建設されその面影は何も見れない。
宇佐八幡の石祠
大宰府中学校中庭の石祠は昔宇佐八幡宮を勧請したものである。平安時代、
宇佐神宮は、五条駅近くにある左郭七条十二坊の地を買い取り、府中宇佐町と
称した。やがて、宇佐の神官や僧たちがやって来て、大山寺の社僧と争う事も
あって、大宰府の権威が落ち目の時代であったと言う。
左郭十二坊と府中宇佐町について
平成14年大宰府市は、平安時代後期の左郭十二坊と見られる道路後を確認した。五条踏切から五条交差点を通る南北道路で、道幅約3mの道路跡と両脇に側溝後。一区画は約90mの正方形の可能性が大とされている。古い文献には「府中宇佐町」の位置について、”東は京極大路で限る”とあり、所在地は左郭七条十二坊の位置に当たる。左郭十二坊は”東の京極大路”に相当すると考えられている。ここに28家が住んでいたことが知られている。
梅大路の碑が見られる五条交差点付近昔天満宮の門前町として栄えた 五条交差点付近
五条の繁盛と六座
この辺りは昔から天満宮の門前町として栄えた。
二日市方面からの参拝客は五条の構え口を通り、下町
・中町・横町へと進んだ。五条の辺りは旅館、飲食店が
立ち並び、明治初年頃には宰府の一等地であった。その
頃は梅大路と呼ばれたが、明治26年太宰府条坊にちなん
で五条と改称。昔この町には六座があった。鋳物座・米屋
座・染物座・相物座(魚、乾物のこと)・細物座(こまもの)
鍛冶屋座の六つをいい、天満宮或いは観世音寺の保護を
受け、商品の製造・販売の特権を持つ商工業の組合のこ
とでその子孫の多くは五条に住んでいる。
秋の神幸式では必ず「竹の曲」が奉納され、これは六座の
子孫の人々の奉仕である。
今は病院敷地になってる九州探題跡
九州探題館址
今病院(中川病院)が建っている丘を昔「月見山」とか「築山」と呼び,足利幕府から派遣された九州
探題今川了俊の館が在ったところと云われている。
南北朝時代(1336〜1392)の中頃、大宰府では懐良親王・菊池武光らの南朝方が勢力を強め、征西府
を置いて軍備を整え京都に上ろうとしていた。 了俊は建徳2年(1371)室町幕府の九州探題として九州
に赴任して、征西府を攻撃して大宰府より追放し、以後25年間九州の経営に力を尽くした。
一方では了俊は太宰府天満宮を厚く崇敬し、千句連歌を興行した時の100句の歌が天満宮に残っている。

血方持観音

血方持観音
血方持(ちけもち)観音
道の傍ら、榎の大木の根元にある石仏を血方持さまとか、血方持観音と云っている。
府中宇佐町の役人宮成某の妻が血の道を患い重病になった時、天神様の信仰により
全快することが出来た。その後この女性が亡くなったときここに石仏を建てて弔ったが
それ以降天神様伝授と言われる血の道の霊薬が評判となり、大正のころまで五条の
古川家で売られていたと言う。
宇佐八幡の石祠
どんかん道
 この道は大宰府天満宮の秋祭り神幸式の際の
御神幸の道筋で「どんかん道」と言う。天満宮の
神幸式は筑紫路の秋を彩る最大の御祭り。
ご神幸の往復の途中、血方持観音の辺りで行列
を止め、しばらく鳴り物を止めるのがしきたりにな
っている。
どんかん道
どんかん道を天満宮まで練り歩く神輿
三浦の碑
 
 昔 博多方面から天満宮に参詣する人は、この五条橋
のたもとで三笠川の清流で手を洗い、身を清めてお参りし
た。この場所は天満宮の禊の場として昔から神聖視化さ
れており、神幸式の時に神輿に奉仕する若者はここで禊
をしたと言われる。
文政13年(1830)に伊勢の二見浦・紀伊の和歌浦・筑前
の箱崎浦即ち三浦のお塩井でこの地を清めた。その記念
に三浦の碑が出来た。文字は博多聖福寺の仙崖和尚が
書いた。 
三浦の碑
博多方面から天満宮への参詣道  この五条の橋の向か
い側下に三浦の碑
金掛天満宮 御祭神 菅原道真公
金掛天満宮(御祭神 菅原道真公)

 
由緒 後土御門天皇の御世 明応の年(1492〜1500) 今より500年の昔 古川家
当主に勝時という人あり、勤勉にてその財を成したが 大旱魃起こりて凶作が続く 飢餓
を訴える人は道に溢れ 餓死する人もその数知れず 勝時 私財を投げ出し是を救い助く。
しかるに古川家は家運傾き 衰退の一途を辿り 子孫困窮す
 
次代勝政 家を挙げて庭内の天神の祠に祈念す されば 夢中で白髪の老翁が出現し
梅の枝に黄金の袋を掛け置くを告げる。翌朝早く起きて祠に詣でれば 果たして之あり。
これより 家運再び興りて相承け相継ぎて今にある。時の人曰く「積善の余慶天の賜りなり」
と これこの祠を金掛天満宮と称え申し上げる所以なり、、、、」
竈門神社頓宮跡
竈門神社頓宮跡
船越宅前の地蔵堂の後ろ、樫の大木の根元の巨石
を宝満石神といい、ここが竈門神社の頓宮跡。中世ま
では竈門神社のお神輿がこの頓宮までお下りしたと言
う。現在でも船越家がお祀りされている。
佐藤宅庭にある神牛塚の碑
神牛塚の碑
神牛塚の碑
 
 
佐藤宅の庭の一隅に神牛塚の碑が建っている。
菅原道真公の亡骸を安楽寺まで運んだ牛は、その帰り
道ここで倒れて息を引き取ったと言う。
後の人が憐れんで牛を葬り供養したもの。
西行寺と岩屋城の戦い

 西行寺は、天正14年(1586)岩屋城の戦いで玉砕した城主高橋紹運ら763人の霊を弔う
菩提寺である。味方の数十倍という島津軍を相手に一歩も引かず、ついに九州統一の島津
の野望を諦めさせた合戦であった。このため豊臣秀吉の九州平定がし易くなった。
高橋紹運は、玉砕の前夜密かに家来の藤内重勝に因果を含め、将兵全員の菩提を弔って
くれと城を抜け出させた。戦いの後、藤内重勝(改正して山内)は僧侶となり西行寺を建立し
た。寺宝として高橋紹運の念持佛、釈迦涅槃図・聖徳太子像等がある。
毎年7月27日将兵全員の霊を弔う法要が行われている。
朝日地蔵

 ここは横岳崇福寺の開基湛慧(たんね)禅師のお墓で、又入寂の地でも
ある。自然石を祀ってあり参詣者が多い。
言い伝えによると、今から750年前程前の鎌倉時代のこと、観世音寺で正月
に鬼すべ行事が行われ、その日門前を通りかかった人を捕らえて鬼すべの
鬼とした。たまたま湛慧が通りかかって鬼に仕立てられて、煙でくすべ立てら
れた。湛慧は僧の身でありながら鬼にされ辱めを受けたことを大変不真面目に
思った。当時大宰府には観世音寺のほか、安楽寺、有智山寺などの大寺があ
って、新興の禅宗の広まりに反目していた背景があったと言う。後年、湛慧は
ここで横穴を掘って入り、読経しながら成仏したと言う。
横岳崇福寺総括

 
大宰府にあった横岳山(おうがくざん)崇福寺は通称横岳(よこだけ)崇福寺と称し,博多に
再建された崇福寺の別院となっている。この寺は鎌倉時代の任治元年(1240)隋乗坊湛慧が創建し、この年宋より帰国した聖一国師が湛慧に請われて開堂説法した。渡唐(宋)天神の伝説はこの頃に由来。寛元元年(1243)崇福寺は、博多の承天寺と共に官寺となった。聖一国師が京都に招かれて30年後、文永9年(1272)湛慧の招きにより、大応国師が崇福寺の開山となった。ここに留まること30年。地方に禅風を興し、後鎌倉に移り、延慶元年(1308)遷化した。
別院の東の丘に大応国師の墓「瑞運塔」があり遺髪を納む。
創建以来法灯を守り続けていた崇福寺は、天正14年(1586)岩屋城合戦の際、兵火によって
七堂伽藍を始め数多くの子院、建物が全焼して345年間の法灯が一時消えた。その後慶長6年(1601)藩主黒田長政が博多千代の松原に横岳山崇福寺を再建し、藩主の菩提寺として今日まで法灯は引き継がれている。その再建の時朝日地蔵の分霊もその境内にお祀りした。
崇福寺別院 最初ここが崇福寺であったとも
高橋紹運の菩提寺西行寺
4、五条周辺・崇福寺
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