大宰府史跡めぐり
講堂は七堂伽藍の一つで説教・講義をするお堂。現在は本堂として本尊に重要文化財の聖観世音菩薩(杵島観音ともいう)をお祀りして日々勤行が行われている。
現在の講堂は、江戸時代に暴風によって倒壊したものを、元禄元年(1688)藩主黒田光之が再建した。桁行5間、梁行4間となっているが、創建当時は今の2.5倍の大きさであって、今も周囲16個の礎石が残っている。
観世音寺入り口

観世音寺

観世音寺は、天智天皇が朝倉の宮で亡くなった母斉明天皇の冥福を祈る為に創建されたもので、完成したのは80年後の聖武天皇天平18年(746)である。
当時は奈良の法隆寺と規模を競ったと伝えられているが、度重なる災害に遭い江戸時代に再建されたのが現在の講堂、金堂である。
宝蔵には、平安、鎌倉時代の巨大な仏像が収められている。鐘楼には創建当時の日本最古と云われる国宝の梵鐘がある。菅原道真公が配所の南館で「観音寺は只鐘声を聴く」と詠んだのがこの鐘である。

観世音寺南大門跡 南大門礎石

南大門と築地塀

南大門の礎石が数個あって円形の柱座は柱の大きさを示す。南大門から北門にかけ寺の周囲には築地塀を巡らせていた。「延喜5年観世音寺資財帳」には築地塀の長さ南北長694尺(約210m)、東西長614尺(186m)とある。
「延喜5年観世音寺資財帳」
昔の観世音寺の盛大さを知るにはこの資財帳や大永6年(1526)に写された「観世音寺絵図」などがある。この資財帳は延喜5年観世音寺にて作られ建物の配置、規模等記録されている。平安時代末期、観世音寺が東大寺の末寺になったとき東大寺に移された。現在東京芸術大学に保管され国宝に指定されている。

筑紫なる遠の御門の址どころ
           観世音寺の鐘けさを鳴る 
                      山崎 斌
まほろばの鐘天平の
            雲を呼び
                安武 九馬
手を当てて鐘はたふとき冷たさに
          爪たたき聴くそのかそけきを
                      長塚 節
露のみち 観世音寺の 鐘聞こゆ
                 清原 拐童 

木げん樹
碾磑
境内の歌碑と句碑
正面が講堂、左が金堂、右に五重塔の礎石、その後ろに鐘楼がある。室町時代に写された「観世音寺絵図」によれば、中門と講堂とは周囲を回廊で結び、その内側に金堂と
五重塔とが向かい合う観世音寺式伽藍配置であった。講堂の背後に鐘楼等があり、さらにその北側には長い僧房が立ち並び、七堂伽藍が整った大寺院であった。朱塗りの
柱、瓦屋根が光る講堂、それらを圧する様に、天に聳えた五重塔など、当時の華麗さが偲ばれる。
中門から見る昼と夜明かりに浮かぶ講堂
金堂(阿弥陀堂)
金堂とは金色の仏像を安置する寺院の中心的な建物であった。以前はここには
四天王がお護りした金色の阿弥陀如来を本尊としていたので阿弥陀堂とも云った。
現在の金堂は寛永8年(1631)藩主黒田忠之が仏像を守る仮堂として建てたもの。
(金堂の発掘調査)
1、2002年創建当時の金堂の規模を確認する為発掘調査が行われた。その結果
西側に拡張された基壇が発見され、そこから焼土(やけつち)が発見された。
観世音寺の記録によれば、平安時代終わりの康治2年(1143)6月、金堂と回廊が
焼けたと言う記事があり、この焼土が符合する。
2、さらに焼土基壇より一段下がった張り出し部の基壇が発見された。
「観世音寺古図」にも付属建物の基壇が描かれており、発掘した基壇そのもので
あると言う。付属建物については今後も調査が必要である。
講堂、金堂の発掘調査へ
碾磑と木げん樹
天平の石臼と云われている。「日本書紀」の推古18年(610)に高句麗の僧曇微が初めて碾磑(てんがい)を造ったと言われ、これがその実物かどうかわ判らない。これの用途
については食料の小麦粉を挽いたとか、建物の塗料にする朱を粉末にするのに使ったと云われている。(食料説は弱い)
木げん樹は謡曲「道明寺」に詳しい因縁が説かれている。官公が九州に下る時河内国
道明寺に官公が写した大乗経を埋めた。その経塚から生じた樹の実を持ち来たって此処に蒔いた実生(みしょう)の樹である。種子は古くから数珠の玉に用いられた。

清水記碑

石碑裏面
清水記碑
石碑は、江戸時代福岡藩の元藩士で文学者の加藤一純が、後世、由緒ある清水山のいわれが忘れ去られるのを愁えて、後の世までも長く伝え様と建てたもの。「筑前国御笠郡観世音寺は 清水山普門院といひける 源氏物語玉葛巻にも、大弐のみたちのうへの清水の御寺の観世音寺にと 紫式部もかけり 此寺を清水の御寺と言うなりさいふことも 此寺の後ろに清水のわきいずるところあればなるべし 此の水今に至りて変わらず しかいえども猶とし月をかさねて後の世にもいたりなば この名をさへたどらんと ある人のいたみおもいて 此事をしるしてすえの世にもつたえよとこふ 予も権帥をかねし身なれば 予執にひかれていなむことを忘れ もとめにしたがひ筆をとりてしるすことしかり
安政5年(1776)9月18日   権大納言兼太宰権帥藤  印
                                           永田良能謹写
石碑裏面の漢文の読み下し一節
右の清水記は権大納言兼太宰権帥滋野井公麗(しげのいきんかず)卿が元福岡藩士の加藤一純の請いに応えて文章を作った。

碾磑と木げん樹
碾磑
木げん樹
五重塔心礎
五重塔の心柱の礎石。心柱はこの穴から直立して最頂部の相輪を支えていた。穴の直径
は柱の大きさを示す。創建当時は礎石の周囲には高さ約1.5mの基壇があって、その上に
華麗な五重塔が聳えていたが、平安時代の康平7年(1064)に大火災にあって講堂とともに
焼失した。塔はその後再建されなかった。寺の創建から318年の後の事である。
国宝梵鐘
此の梵鐘は京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘と言われ、その古さに於いても優秀さに於いても正に日本一と
称せられ、糟屋郡多々良で鋳造されたと言われています。官公の詩に
           「都府楼はわずかに瓦色を看る 観世音寺は只鐘声を聞く」
とあるのはこの鐘のことである。
観世音寺の梵鐘は創建以来の鐘である。京都妙心寺の鐘は文武2年(698)鋳造が明らかであるが、こちらの
鐘と対比して見る撞座の蓮華文などの文様に違いがあり、観世音寺の鋳造が先行すると考えられている。
観世音寺に於いて創建当時から完全な姿で今日まで残されたのはこの鐘これだけ。大変貴重なもので国宝に
指定されている。
鐘の大きさ  総高160.5cm   鐘身高118.0cm    口径 86.3cm    重量 約840kg
妙心寺鐘の文字  戊じゅつ年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘(ぼじゅつのとし いんいん・しゅう・
かすやのこおりのきみ・つきしねのむらじ・ひろくに・ちゅうしょう)
観世音寺の鐘 「上三毛」・「麻呂」の文字
五重塔心礎
国宝梵鐘
日本の音風景百選認定書
宝蔵

宝蔵は昭和34年(1959)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管する為、国、県、財界や一般の有志によって、正倉院風で周囲の景色に馴染み易い収蔵庫が建設された。
 この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体を初め、能楽面などすべての重要文化財の品々が収容されている。特に5m前後の観音像がずらりと並んで、圧倒される。
2005年秋宝蔵前庭の紅葉が綺麗
沙弥満誓万葉歌碑
しらぬひ筑紫の綿は身につけて いまだは著ねど暖かに見ゆ(万葉巻三336
(大意)九州の真綿は未だ身につけてはいないが、見るからに暖かそうだ。
「しらぬひ」の原文は「白縫」で、筑紫の枕詞である。
満誓は養老7年(723)造観世音寺別当として観世音寺の造営を促進した。出家する前は木曽路を完成するなど有能な役人であったが、元明上皇(女帝)の病気平癒を祈る為に出家した。
天智塔
九重の天智塔は昭和34年宝蔵が建設された時、観世音寺の建立を発願された天智天皇の供養の為、建設に努力した河内卯兵衛氏が建てた。
僧坊跡
僧坊跡 
 観世音寺の創建当時、講堂の北側には僧坊の建物郡があった。修業する僧たちの学門所兼宿舎の性格を持っていた。その内最も大きな建物を大房といい、長さ104m、幅10mの細長い建物で、数人ずつが起居するように仕切られていた。現在の礎石は近年復元されたもの。
日吉神社

この神社は観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。
比叡山の日吉(ヒエ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれたらしい。
江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折この日吉社に陣を張ったが、時の観世音寺別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝えられる。
僧正玄ムの墓
僧正玄ムの墓
 宝篋印塔は僧玄ム(げんぼう)の墓と伝えられる。玄ムは奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。
中門と建物配置
戒壇院
戒壇院は「天下の三戒壇院」の一つとして天平宝宇5年(761)、筑紫観世音寺境内の西南角に設置された。唐僧鑑真は5度渡航に失敗し、身は盲目となりながら、我が国に戒律を伝え、天平勝宝6年(754)奈良東大寺に戒壇を設けた。此処西戒壇は、下野薬師寺の東戒壇と同年に設置され、九州の僧尼達の登檀受戒の道場として継承されて来た。
江戸時代、元禄年間前後より黒田藩家臣鎌田昌勝、豪商浦了夢等によって再興が続けられ、開山鑑真和上像、本尊脇侍、梵鐘等も新造された。元禄16年(1703)藩命により博多禅宗四ヶ寺の管理となり、観世音寺を離れ、現在は博多聖福寺の末寺となっている。なお本尊屡舎那佛は平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
本尊屡舎那佛
本尊屡舎那佛と脇侍
  戒壇院の本尊。平安時代(12世紀)の作で漆の上に金箔を張っている。国の重要文化財である。両手は胸前にあげて、説法する姿である。

脇侍 弥勒菩薩と文殊菩薩(共に太宰府市指定文化財)

  向って左は弥勒菩薩、右は文殊菩薩である。弥勒菩薩は右手に五重塔を持ち戒律を授ける。
 文殊菩薩は左手に経巻を持ち知恵を授ける。どちらも元禄12年(1699)に京都で彫られて翌年福岡の仏師が仕上げしている・
鑑真和上、浦了無の供養塔、仏舎利を覆う満開の百日紅
鑑真和上供養塔
左は変形宝筐印塔裏に「山崎勝重」と天明7年陰刻。右が鑑真五輪の塔で屋根型に「開山大唐国」と陰刻されている
鑑真和上中国から
請来したわが国最初の菩提樹
鑑真和上木像と鑑真和上供養塔(右上の左)
 
堂内右手奥にこの寺の開山鑑真和上の木像が安置されている。江戸時代の 宝永2年(1705)京都の仏師により造られた。鑑真和上は、
 聖武天皇の日本の仏教に正しい戒律を定めて欲しいとの、強い要請に応じ、来日を決意し、唐から5度の渡航に失敗、12年をかけ6度目の
 決行でやっと来日し、太宰府を経て奈良に上った。東大寺に始めて戒壇を設け、聖武天皇や多くの人々に戒を授けた。後に唐招提寺をたて
 天平宝宇7年(763)76歳で入寂した。
 本道の西側近くの五輪の塔は開山鑑真和上の供養塔である。屋根型に「開山大唐国」の印刻がある。
浦了無供養塔と仏舎利

石造り五重塔は天王寺屋浦了無の供養塔である。戒壇院や観世音寺はたびたび火災や大風の
被害を受けたが、中世以降は経済が苦しく建物の再建ができなかった。
この時豪商天王寺屋浦了無が藩主の命を受けて戒壇院及び観世音寺講堂の再建に力を尽くした。
塔の裏面に「単傳浦了無居士」の文字がある。
昭和61年(1986)、この塔の塔身の穴から「仏舎利」と文書が発見された。仏舎利は雁時和上が
日本に持ち込んだ「招提舎利」の一部と言われており、大きさは直径約5mmほどで乳白色の丸い
もので、十七世紀後半に納められたと云われる大変貴重な品である。
禁令標

「不許葷酒肉入境内」とは匂いの強い野菜や酒、肉を飲食した人は境内に立ち入る
事を許さないというもの。厳しい修行中の僧侶の邪魔をしたり、寺内を騒がすことの
ないよう戒めたもの。
弘法水
 榎の根元に沸く水が、清水山観世音寺の山号の由来になった水である。
榎の下に観音菩薩と弘法大師の石像が立っている為に現在は弘法水と呼んでいるが、正式には「清水井」とか「山の井」という。
加藤一純が「清水記」の石碑を建てたのもこの清水である。
池の辺に観音と弘法の石像が祀られ、筑紫四国の霊場として、春秋の彼岸
の頃は参詣者が多い。

筑紫四国第三番札所清水山弘法の池入り口

今でもこんこんと湧き出る清水弘法の井

解説文
学校院跡
奈良、平安時代の府学つまり大宰府の学校のことで、大宰府の
役人を養成する役所がこの一帯にあった。
学校で学ぶのは、政治学・医学・算術のコースに分かれ、その人
数は200人を超えた。同様の役所としては、中央には大学、地方
には国学が置かれていた。この跡地から、昔の建物の壁や床に
張り付ける「せん」(現在のタイル様のもの)が発見されて、表面の
形のいい蓮華唐花文が描かれており、太宰府市の史跡ポスター
によく使われている。
武藤資頼(左の五輪塔)、資能(右側)の墓が並んでいる 武藤資頼の墓
武藤資能の墓
武藤氏の墓
左写真の向かって左の五輪の塔が武藤資頼の墓。宝筐印塔向かって右がその子資能の墓。武藤氏は鎌倉時代の武将で太宰少弐を世襲したことから少弐氏を名乗る。五輪の塔(県文化財)は地・水・火の下の三輪しか残っていないが、四面には円相の中に仏像が浮き彫りにされている。又球の形であるべき水輪は、四角石を落としただけで球形を表す等、大変珍しいものである。
武藤資頼は鎌倉幕府が開かれて間もない、建久7年(1196)ごろ、源頼朝の命を受けて鎮西奉行として大宰府にくだり、豊前・筑前・肥前・対馬の守護職を兼ねた。   武藤資能は、文永11年(1274)の元寇のときは、77才の高齢ながら現地総指揮官として日本軍の先頭に立って
元軍を撃退した。次の弘安の役(1281)にも出陣して奮戦したが、このとき受けた傷がもとで、84才の生涯を閉じた。その葬儀には崇福寺の大
応国師が導師となったと言う。
3、観世音寺と戒壇寺
inserted by FC2 system