大宰府政庁跡全景
大宰府政庁跡正殿前から望む(都府楼跡)
大宰府政庁跡回廊側から
大宰府政庁跡(特別史跡)
  

  1) 大宰府の誕生
     北部九州は中国や朝鮮半島に近く、原始時代から交流があった。大和朝廷は早くから那津官家(なのつのみやけ) を設け、筑紫太宰(ちくしだざい)を派遣して、政治・外交・防衛に当たらせた。 天智天皇2年(663)百済救援の日本軍は白村江で大敗をした為、敵の
侵攻に備えて水城・大野城・基肄城を築いて、その頃博多湾岸にあった那津官家を此処に移し「大宰府」が誕生したと考えられる。発掘の結果からもそれが証明される。

 2) 
大宰府政庁跡(都府楼跡)
    大宰府政庁という大きな役所は、多くの礎石の上に建っていた。昭和43年から始められた発掘調査によってその姿が判って来た。
正殿は都の大極殿にあたるもので一番重要な建物。正殿と中門を回廊が結びその中に脇殿が4棟ある。中央の広場は一面の石畳で、儀式の場であった。その他、南門・築地・後殿等の建物があって、朱塗りの柱に堂々とした甍の建物が広い空間いっぱいに立ち並んでいた。

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